25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

技術的失業

2018年02月16日 | 文学 思想
 母がまた転倒して、今度は手首を折った。深い傷口のある骨折だったので骨髄炎にならなよう洗浄をして、外側から橋をかけるように固定する手術をした。一週間ほど様子を見て、再度手術をする予定である。1ヶ月以上の入院になりそうである。また下肢の筋肉が衰える。
 交通事故以来、5年間様子をみてきたので、ぼくには裁判やら、介護のことやらの知識が増えた。
 今回のことも交通事故からの弱りが影響していると思う。もちろん加齢もある。
 母はどのように弱っていくか、長く健康を保つには何に注意しなければならないかもわかる。息子たちもこの様子を見ておいてくれればよいが、他所にいるから、この変化はわからず、しかも祖母のことで、実母よりは遠い存在だから、心配度は薄い。
 しかしながら、ぼくが妻よりも先に死に、妻が残された場合、ぼくがどのように母の介護をしていたか見ていないだけに、言葉でしっかり伝えておこうと思う。
 今日は病院に六時間もいることになったので、その間、医師からの説明や看護士の方々と話をしたので、病院という組織で働くネットワークのようなものの中で居心地よくいることができた。おそらく病院の応対サービスの技術や意識は昔よりも質が上がっているのだろう。
 未だに電子カルテを使えない病院がある。事故などでカルテを提出しなければならないことも起きるだろう。それは被害者にとって不便なことだ。
 尾鷲病院は映像やデータが共有化されている。指示は的確に必要な人や部所に伝えらる。

 この病院は個人的な用語として使う技術的失業はないように思える。技術の進歩によって電話交換手が要らなくなる。これを技術的失業と呼ぶ。とりあえずパソコンが使えないというのは技術的失業であり、特化型AIがさらに進歩すれば多くの職種に技術的失業が起こる。
 話はまったく逸れてしまったが、そんなことを思いつつ、組織内の人々が働いている姿を見ながら病院内にいたのだった。