25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

祭、自治会、防災会

2018年09月16日 | 社会・経済・政治
 今日は朝から家の前では各町の踊り子チームが予行演習でやってきては騒がしい。太鼓がつきもので、これだけはなくてはならないものだ。最近はだんだんと音楽がポップスになってきて太鼓で合わすのはたいへんそうだ。まるでハロウィーンのようで、衣装はキラキラになっている。
 道中踊りをみるのが楽しみで見に来る人も昔は多かったが今は少なくなった。八幡神社の祭りである。

 ぼくが住む北町は子供数ゼロのはずだが、どこかから借りてきたのだろう。
 テレビニュースでも毎日のようにこの時期各地の祭りが紹介される。祭りへの思いが熱い人がどこにもいるものだ。そういう人が祭を継承していく。ぼくみたいなものばかりだったら、もう役割はおわたんだ、とか言って、きの煩わしそうなイベントをやめてしまうのだろう。
 ある村では小山建てた屋根と柱だけの建物の上に男たちがヨイショ、ヨイショと力を込めて踏むのである、南側に倒れたら今年は豊作、北側だったら不作と言われているそうで、郷土史を知るひとなら、そんなことはないというにだが、村の人達は南側に倒すようなんとか頑張る。今年は北側に倒れた。みな、難しい顔をしていた。
 イベントというものがあまりなかった昔。イベントがありすぎる現代。多くの祭はやはり、二次元、三次産業の増加とともに減っていくのだろう。人口減少も加担するに違いない。

 ぼくが住むような小さな町でも今は昔のような近所付き合い、村落共同体のような意識は希薄でである。各家どうしが干渉することもなくトラブルもなく平穏に暮らしているように見える。
 昔、自治会の会長番がきたとき、多くの人が役員になるのがイヤで、役員の中にも、もう自治会合は要らないのではないか、という意見出た。結局アンケートをとることになった。結果は「不要」の人の法学多かった。必要とした人もいたが、その人たちさえ、自分が役員になることを嫌がった。ぼくが会長のとき、自治会は解散した。解散の手続きも大変だったが、自分だけは役を逃れたい無責任な人が多いのである。だったら止めよう。会費集めも、回覧板も回さなくてもよいし、それでよい。
 解散してから住民として自治会がなくて困ったということはない。自治連合会があtらほうがよい、というだけだ。その根拠もわからない。ぼくは自主防災会だけは残した。これはやがてくる南海トラフのためだ。