25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

人類が克服するべきこと

2018年09月25日 | 文学 思想
 同じアマゾンの奥の奥で一万年も現代文明に接することがなかった先住民は西洋人が入り込むことで、病原菌をもらい絶滅した部族もいれば、虐殺されたものもいた。
 ぼくがびっくり仰天した「ヤノマミ」は人類の原初の姿を残している民族かと思い興味深く読んだ。その「ヤノマミ」は北海道より大きな面積をヤノマミ居住の保護区として厳しい管理下にあり、その生活様式も保護され、外部からの侵入者遮られている。
 次に「ピダハン」を知ることになって、さらにびっくりしたのはピダハンはヤノマミの文化よりも古そうであった。しかしながらピダハンもすでに現代文明と接触し、彼らの移動範囲は保護区に指定されていた。ピダハンの方が魚や獲物が豊富な環境にいるように思えた。ヤノマミには言い伝えの神話ぽいみにがあったが、ピダハンにはなかった。
 今度読んだ「ノモレ(仲間の意)」では文明と未だに接触していない民族と接触を試みる同じ先住民で先に文明と接した若い村長の話だった。対岸にイゾラド(文明と接触していない民をペルーではそう呼んでいる)の家族らしき人々が現れた。彼らはボートの音に怯え、光るガラスに怯える。若い村長は三十回も接触を試み、バナナの保存の仕方も教えるが、ある日、川に観光船がやってきて、白人観光客が「裸族」だと言って写真をとりまくり、フラッシュがたかれる。航行禁止の区域である。
 すべてが徒労となった。その日以来森の中に消えたままだ。
 こころある人たちは絶滅させてはならないと保護活動を行う。放っておけばよい、と考えるものもいる。
 メソポタミア、ヨーロッパ、アジアに出たホモ・サピエンスのなかで、北アメリカに渡り、さらに南下してアマゾン川、その支流と入っていって、楽園を見つけたものたちがいた。スペイン人、ポルトガル人材達が入ってきてから、様子が変わり始めた。キリスト教者たちであり、荒くれで、本国ではどうにもならず、開拓地へと赴いた無教養のものたちだった。やがて銃をもってゴム農園を作るものたちが出てきた。牧草地を作るのにジャングルを伐採した。先住民の多くは絶滅した。奥地に逃げたものたちもいた。
 ヤノマミもピダハンもそうだ。そして今なお文明と接していない民族が森の中にいるのである。
飢饉のあえいだものたちは、道具を発展させ、戦争を起こし、自分たちを正当化した。反面で「愛」だ「平和」といい始めた。

 さて、考えるにこの世界から無くさなければならないものが3つある。
飢饉と戦争と一神教の心の裡の神である。この3冊の本を読んでつくづくそう思う。

※日曜日版9月23日号の「南海日日新聞」での川上素直氏の投稿は立派であった。彼は高田大禮氏のとんちんかんなエッセーに論理的に物申していた。戦争への扉の鍵はしておかないと。
 憲法9条こそが人類が見習うべき模範である。ぼくはそう考えている。