25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

ピダハンを読んで

2018年09月22日 | 
「ピダハン」を読み終えた。ブラジル、アマゾン川の支流の支流のまた支流の流で暮らす先住民である。五百人ほどのピダハンが幾つかの集団に分かれて近隣で暮らしている。
 作者はキリスト教福音派の宣教師で、ピダハンの村に入り、ピダハン語を覚え、ピダハン語聖書を作るのが目的である。
 言語を学習していく過程で、作者はピダハンの文化と言語を考えることになるのだが、彼の関心は言語学に向いてしまう。これまで言語学では解けない謎がピダハン語に多いからだ。
 一方読み手であるぼくは、なぜピダハンは過去の話をしないのか、見えない物を信じないのか、赤ちゃんことばがないのか、200年前に文明と接触しているにもかかわらず、文明社会を拒むのか。どんなものを食べているのか、など言語よりも生活の中身の方を知りたかった。
 「心配」というものがないらしい。「死」が恐ろしいことと思っていないらしい。笑っている時間がとても長いらしい。暴力はいけないとだと思っているらしい。
 作者は言語学理論に一所懸命で、「なぜ」という問を文法上のことばかりに向けるので、読む側mくたびれるのだ。そして謎は明かされるのかと期待して読み進めるのだが、最後まで言語にこだわったまま終え、この本を書く頃には無神論者になっているのだ。

 人類がアフリカを出て地球の隅々にまで移動していったなかにアマゾン川の上流をひたすらのぼっていった人々がいた。あるものたちは川沿いに居住し、またそのなかのあるものたちは支流いわけいり、奥へ奥へとのぼった。
 その一グループがピダハンなのだろう。十万年前のことか五万年、一万年前かわからない。飢餓を起こさないで済む環境を見つけたのだろう。

 話を変えるが、テレビなどでは「愛」という言葉がよく出てくる。この言葉はぼくには使えない。ぼくの心身に収まってないのだ。アメリカの映画を見ているとどれほどこの言葉を耳にすることか。同様に「神」という言葉もぼくのなかに収まらない。あの世も、天国も、地獄も、同様である。要するに、宗教用語が収まらないのだ。