25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

国分拓 ノモレ、ヤノマミ

2018年09月23日 | 文学 思想
 国分拓NHKディレクターたちの取材根性は半端ではなかった。ぼくは彼が書いた「ヤノマミ」を読んで度肝を抜かれた。吸血ブヨ、毒グモ、大群の蚊、巨大なアナコンダがいる中で暮らす覚悟にまずぼくは驚嘆した。結果、その本は文明人の価値観に自然と挑戦するものであった。
 500年前、キリスト教の伝道団が入り込んだ。次に軍隊が入り込んだ。多くの先住民は絶滅していった。スペインやポルトガルから病気の元となる菌やウィルスを持ち込んだのだ。アマゾンに軍隊が入り込んできた。200年前、軍隊のあとに、一攫千金を夢見た荒くれの輩が入り込み、ゴムの樹液を取りまくった。奴隷を連れてくるにはコストが高かった。だから彼らは馬に乗り、銃で脅して先住民を奴隷にした。逃れた部族も何十とあった。
 ヤノマミもピダハンもアマゾンの森の奥、また奥へ、一部はペルーにも逃れたのかも知れない。

 現在、まだ文明と接してない人々を「イゾラド」と呼ぶようになった。

 国分拓は「ヤノマミ」以降、「ノモレ(友、仲間)」を書いた。「イゾラド」と接触するイネ族の若い村長に今度は付き従った。「イゾラド」に数人の村人が襲われ、殺されていた。政府は警戒警報をだし、イゾラドと接触しないように厳重に言い渡した。病気を移し、絶滅させるかも知れないからである。若い村長は政府の監視拠点で向こう岸を双眼鏡でみていると、二人の親子らしき男が現れた。若い村長はイネ族の言葉で呼び掛けた、「ノモレ! ノモレ! 」。二人の男はその言葉を理解した。二人の男は「傷ついた仲間がいる。助けてほしい」と言った。若い村長は確かにそう聞いた。いよいよ取材は物語のように展開していく。

 「ピダハン」は200年前に文明と接しながら、文明を敢然と拒否した。アメリカの宣教師はかれらの言語を探った。ピダハンの社会にはリーダーもおらず、子供と大人の区別もなく平等に暮らしていた。おそらくアマゾンの支流豊穣な魚や動植物がピダハンの価値観を生んだのだろう。

 三冊の貴重な取材、それをもとにした本からぼくは貴重なものを得た。それは「人間の原形の再取り込み」である。果たして人間は旧約聖書に書かれているように戦いと略奪を繰り返す愚かなものなのだろうか。一神教から今日に至る価値観は肯定できるものだろうか。
 人間の原形。人間は本当に悪を含むのか。欲望は無制限なのか。われわれが持続可能で生きてゆける食料と水と塩はどれほどなのか(これはすで明らかである)
 人間の様々なことを原形を基準にしながら仕分けできないものか。

 そんなことを思いながら日曜日が過ぎていく。