25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

この面倒なものー宗教

2018年10月14日 | 文学 思想
 煙草を止めてから2週間になる。煙草が身体に悪いから、という理由で止めたのではない。税金を払うのがやっぱり馬鹿馬鹿しく、この経費を節約すれば他の消費にも、節約にも回せると、料金値上げのときに思ってしまったからだった。
 ときどき吸いたくなる間がある。この時にお茶を飲むのに立ち上がり、お茶を作り、それを飲むという一連の動作で逃れたり、飴玉を食べてみたりする。もう喫煙者もいる場所がますますなくなっていくから、この辺が止め時かと、税金に降参することにした。
 思えば、ライターを持ち忘れたとか、ライターが点かないとか、タバコの本数があと何本しかないとか、細君に煙を吸わせるのは申し訳ない、とか幾つかの無駄と思えることがなくなった。

 ウィスキーを呑みながら葉巻を吸うのも終わりだ。これはちょっと寂しい。

 そんなことがあって、聖書を読んだことから始まった読書の旅は、さまざまな関連本をよみながら「人類700万年歴史」にわたり、「ヤノマミ」「ピダハン」「ノモレ」の再読へと進み、これもまた再読であるが、「ホモ・サピエンス全史」に至っている。6月からのことだったと思う。「ホモ・サピエンス全史」も下巻に入って、まさに宗教の誕生から多神教、一神教の誕生へと進むホモ・サピエンスが描かれている。旧約、新約の謎、その後の人類。
 因みにローマ帝国がキリスト教徒を迫害して殺したのは500人ほどだったが、キリスト教がローマの国教となってから他教徒、同じキリスト教徒を殺した数は数千万人である。特に十字軍と、カトリックとプロテスタントの殺し合いはひどかった。愛の宗教などと、どの面下げて言うかね、といいたいものだ。集団というものの、出口機能がなかった、集団は閉塞化するものである。他を排除してしまうものである。愛の集団が殺しの集団にならないための集団論が必要であった。読めばわかるように、新約聖書もパウロの文になってくると、宣教に伴う教会運営のノウハウになっている。
 今日の朝日新聞ではアメリカの福音派が「神の国」復興をトランプ大統領に託す、とあった。700万年の歴史で宗教集団が力を持ったのはなだ2000年ー3000年ほどのものだ。急速に衰退し、個人の救済装置となっていくのは目に見えているのだが。