25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

ユヴァル・ノア・ハラリ

2018年10月17日 | 
書いた小説を自分で校正しているとキリがないようになる。もう間違いはないだろうと最後にまた読んでみると、表現そのものを変えたいという気分になることがある。校正の専門家は書く人の気持ちを収め、客観的に文の誤りや辻褄の合わなさ、データの誤りなどを正していくのである。
 午前中、パソコンの前に座っているときは前に書いたものの校正ばかりやっている。この一年で短編と中編ほどの小説を6つ書いたので、3つづつに分けて、本にしておこうかと思っている。それほどに印刷や製本代が安くなった。ISBNやバーコードまでも取れる。
 書いた人が本を作って、それを売るネット会社が現れる。つまり出版社が不要になる。すべての出版社がなくなるとは思わないが、激減することは確かなように思える。
 読む物がすべてタブレットやスマホに変わるとは思えない。なぜなら本の方が便利だからである。電池を気にしなくてもよいし、メモも書ける。落す確率も増える。
 ぼくは「青空文庫」のアプリを入れているので、著作権切れの小説は「青空文庫」で読んでいる。便利であるが、文庫本の方がやはり便利だ。本はペラペラとページを探るのが早い。スマホは遅い。どこにあの言葉があったかな、と探すときだ。

ユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史上巻・下巻」は面白い。出版社が気合いを入れて出版権を獲得した作品である。2017年ビジネス書大賞を受賞している。(なぜビジネスジャンルなのかは不明だが)ぼくの一連の6月からの読書の旅はテーマとしてはこの本で終わることになる。そのなかで幾つか目からウロコが落ちた見識があった。
  近代科学は、私たちがすべてを知っているわけではないという前提に立つ。それに輪をかけて重要なのだが、私たちが知っていると思っている事柄も、さらに知識を獲得するうちに、誤りであると判明する場合がありうることも、受け入れている。いかなる概念も、考えも、説も、神聖不可侵ではなく、異議を差し挟む余地がある。(サピエンス全史 下巻)

 無知であることを認めた。すべては神だけがわかっていると思っていた時代の終わりの始まりは西ヨーロッパにおいてであった。無知を認めたから新しい知識の獲得を目指す。
 アマゾンの奥地にいたピダハンたちの仲間はこの科学革命の波が細菌やウィルスという形をとって、あるいは銃弾という形で滅亡に追いやられるとは思ってもみなかっただろう。
 歴史はホモ・サピエンスが優位になるように進んでいるのではない。歴史とは何か、といえば、偶然の選択性の足跡である。一神教が多神教よりすぐれたものであるという証拠はない。ある文化が別の文化に勝るという証拠もない。サピエンスがあと一千年生き延びるという証拠もない。
 科学はそこから出発している。納得がいった。