25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

ほぼ6月からの読書旅の終わり

2018年10月30日 | 文学 思想
イエスキリストが生まれる500年ほど前に北インドで仏陀(釈迦)が生まれている。仏教の開祖だと言われている。親鸞が浄土真宗の開祖といわれるがそれが怪しいのと同じくらい怪しいとは思っている。(親鸞は宗派をもつことを言っていないのと同様なのではないかとぼくは疑っている。ただたんなる無知なのかもしれない)
 それはともかく、仏陀は「苦しみからの解放」というか「苦しまない方法」を説いた。幸せを求めれば、それが実現したとしても次には幸せの維持を渇望する。この渇望からまた苦しみが生じる。幸せも苦しみも外界環境からやってくるものもある。あるいは心身の内部からやってくるものもある。一瞬一瞬に変化していくこころの有り様なのだから、幸せなど求めなければよい、ありのままを受け入れるがよい、こだわれば苦が渇望が生じ、緊張が生まれ、それから解放されたいと思い、苦となり、さらに苦を失くしたいと思い、快楽を求め、それが維持されることを望み、快楽や幸せが実現できなければそれはそれで、様々な感情を生み出す。幸せそうな他人を見れば、妬み、嫉みも生まれるだろう。そういう感情をもつ自分を忌まわしくも思うかもしれない。
 というわけで、仏教は「苦」からの解放方法を唱えた宗教なのである。日本では仏教宗教は希薄化、形骸化、伝統化して、各町に葬式に関連すること施設としてあるだけで、この頃は施設もあまり使われず、葬儀会館を使い、お坊さんが来て、理解不能な歌のようなお経を唱えて、帰る。仏教との接点はそこだけで、別に「苦しみからの対処法」を伝授するわけでもない。

 一方イエス・キリストの原始キリスト教団は凄まじい伝道の意識があった。十二使徒のほとんどは処刑されている。パウロというイエスと会ったこともない次世代の者がラテン語ができたために、ローマにキリスト教を広めたのであるが、彼も殺された。しかしパウロは新約聖書の中で徹底した教会の運営マニュアルを残している。異教徒、異民族への対処まで記している。

 このキリスト教はアマゾンの奥地まで入り込んだ。アフリカの奥地にも、世界の果てから果てまで布教を続ける熱心さであった。
 313年。ローマ皇帝コンスタンティヌス1世はローマ帝国でキリスト教を公認した。そしてテオドシス皇帝が国教化した。世界史はこのことによって劇的な変化を見せた。ぼくには最も停滞した暗黒の時代の始まりに思える。そしてそれはまだ一神教という形で今もなお続いている。
 歴史の中を生きる者は現在しか知るしかなく、せいぜい遺跡や遺物、記録などで過去の重要な部分は知ることができる存在だ。イエス・キリストは2018年の世界を見ることもできないし、また313年の「ミラノの勅令」も知ることはできない。自分が善だと信じていたことが自分が死んだ以降に「悪」をなしてしまうこともあり得ることぐらいはイエスやブッダやモハメットくらいの人なら知っていたことだろう。モハメッドも当然ニューヨークツインタワーへの突撃事件も知らない。
 みな、あとは知らんぞ、と死んでいく。いい加減なものだ。世界は現在だけでは解ききれないのだ。

 あと五十年もしないうちにホモ・サピエンスは自らが創造主に成り、無機質な生物を創り出し、それはホモサピエンスと同様学習する能力も持ち、力はサピエンスの何倍もあるサイボーグを生み出す。
 神に替わる存在となると言えるし、そもそも神はいなかったとも言えるのかもしれない。巨視的に見れば、現在の神(唯一神)信仰者はそれさえも神の配慮、範疇の中だというのかも知れない。

 廃れていくもの、勃興するもの、ホモ・サピエンスはここ200年(まだ200年なのだが)、超スピードで科学革命(遺伝子操作のような生物革命もIT革命も、医学革命も含まれる)が進んでいる。
 徐々にではあるが最も深刻な事態とは「神」をどう考えるか、という切羽詰まった時が訪れるときであろう。