25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

文藝春秋を買う 桑田佳祐

2018年09月15日 | 
 「文藝春秋」がサザンオールスターズの大特集を行った。早速買って読んだ。最初のグラビアではカラーで5人全員やそれぞれ個人の写真があった。雑誌の中であ桑田佳祐へのインタビューをまとめたもの。次は原由子と作家の角田光代との対談であった。その後が数名にサザン評であった。この月の別の特集では「昭和の軍人に見る「日本型悪人」の研究」であった。

 サザンは新曲をだしていくことを第一に考えている。それがなければ懐メロメンバーになってしまう。新曲作りが実践されていく。四十年。
 サザンはぼくが仕事を始めたくらいの時にデビューし、それ以来ぼくは追い続け、期待し続けてきた。「朝方ムーンライト」を聞くと、胸が熱くなる。「天井桟敷の怪人」を聞くと踊りたくなる。昔の曲と新しい曲なのに新鮮味は変わらない。
 エロ歌もいいが、世の中への皮肉歌もよい。「サウダーデ」はMy best song である。

 日本ではスーパーバンドであり、桑田佳祐はたぐいまれなシンガーソングライターだろう。
 これまでファンだった人がいた。吉本隆明もそうだった。池波正太郎もそうだった。彼はぼくよりも年上だった。もうかれらの新しい作品は読めない。ぼくの場合、男性では中井貴一、仲村トオル、反町隆史のファンであり、彼らは元気である。女優では若村真由美とミムラのファンである。 
 彼らが死んでしまったら寂しいことだ。桑田佳祐がいなくなればポップスの楽しみがなくなるなあ、みな元気でやってくれよ、などと思ったのだった。
 相撲はついに稀勢の里が負けた。

キーワード 飢餓

2018年09月14日 | 文学 思想
咳止め液が効いているのか、咳が止まり、咳で要する体の消耗も減ったのか、ずいぶんと楽になった。食欲も戻りつつある。明日くらいで咳止め液も止めてみようかと思うようになっている。思いもよらぬ風邪だった。ぼくのからだは26度を越えると汗をかく。時々、夜の12時ごろに体の内側から燃えるように熱くなってくるときがある。自律神経のものなのか、代謝のものなのかはわからない。
 宿題の「こころ」を読み終えて、また「ピダハン」に戻った。近代人のこころと狩猟採集で暮らすピダハンのこころはずいぶんとちがう。たとえば、思春期の悩みであるとか、人間とは何かなどと悩むことはない。人類は自己との問答をする特殊な生き物である。そしてそれが自我を形成し、他と区別し、個人の自由をかくとくしてきたにがいわば文明側の歴史である。ピダハンには飢餓になる環境条件はなく、魚をとり、ナッツを採り、食糧を採集して生きていける環境のなかにいる。集団意識は高いが強い縛りはない。暴力を否定している。アメリカ人の宣教師は我が子を折檻しようとするのをみると、それはだめだと止める。
 ホモ・サピエンスがアフリカを出た20万年前、先にアフリカを出ていたネアンデールタール人
と交接もして、世界の隅々にまで旅をしていったなかにピダハンの先祖もいただろう。ピダハンは暮らすにふさわしい場所を探し当てた。それは餓死することのない世界だった。ゆえに奪い合いをせずともよかったのである。ジャングルだから農耕をする他民族も入って来なかった。神を信じる宣教師に、「神? 見せてごらんよ」と言って笑うのである。
 一方で漱石の「こころ」では下宿屋の娘を好きになり、友人にはそのことを隠していたらその友人が同じ娘を好きになってしまった。このこころの葛藤がテーマである。ピダハンにこの話は馬鹿馬鹿しくて笑ってしまうことだろう。ピダハンの男も女も別の男や女とだれとでも寝る。結婚もするが儀式もない。相性があえばそのまま一緒に暮らす。
 飢餓から免れない場所に住んでしまった人々と飢餓がない場所を偶然にか探し当てた人々とではこれほど違うようになってしまうとは。
 

割に合わない貴乃花

2018年09月13日 | テレビ
 大相撲を毎日4時からしっかり観ている。稀勢の里はひやひやもので、それだけで場所は盛り上がる。御嶽海は快進撃で、鶴竜、白鵬は強い。白鵬の反応のよさは群を抜いている。栃ノ心には故障で稽古ができなかったあせりのようなものがあるようだ。怪我をしないのも実力のうちだと思う。膝の断裂で休場していた宇良は三段目にまで落ちて今場所ようやく復帰している。今日のところで1勝1敗である。遠藤も膝と足首で停滞していたが、この二三場所は調子がよいと思ったら、またどこか悪そうである。

 それにしても北の富士の解説は大胆で面白く、舞の海の解説は小さく、遠慮がちで、寺尾の解説は舞の海をからかう、反論する場面もあって、やはり解説は横綱経験者がするべきものなのか、と思うが、その壁を打ち破るような親方が一人いる。名前は忘れた。たぶん一回ぐらいは向こう正面の解説で出てくるときがあると思う。この人の場合、相撲の取り口を理論的に語るので納得がいく。自分が横綱になれなくても、いかに相撲を観戦するか、そのことに焦点を当てていれば北の富士の後を継げるはずである。

 ぼくは舞の海の解説があまり好きではない。相撲をよく知っていそうで案外知らない。大乃国もいけない。霧島、琴欧洲にいたってが聞いてられない。貴乃花もどうようである。解説には解説のプロ的な領分があってたとえ横綱経験者でなくともできるはずだ。

 蒸し返すようで恐縮だが、相撲協会は日馬富士の暴行事件を知っていながら日馬富士を出場させた罪は大きい。なのに貴乃花だけがマスコミにモミクチャにされた。マスコミはいつも貴乃花にははそうである。彼の頑なな態度に協会側は貴乃花を守るべきであり、まっさきに日馬富士を出場させたことを謝り、酒の席に同伴していたものへの訓告なり戒告を申し渡すべきだったのに、頭の悪い彼らはしなかった。マスコミもその点を突こうともしなかった。割に合わないのは貴乃花である。
 怪我のことも含めて大相撲のあり方を見直すべきところに来ているのかもしれない。

イギリスのある学校の試み

2018年09月10日 | 社会・経済・政治
 イギリスのある小学校では6年生の親のうちどちらかがある期間、たしか二週間程度だったと思うが親だけのクラスを作り、他の6年生と同様、校則を守り、同じ内容の授業を受ける、最後の広々は運動会である。算数のテストもある。運動会にトラウマをもつ男親もいる。半分は算数が苦手である。校則を破る親もいる。
 小学生をもつ親はだいたい40歳くらいで、自分が小学生だった頃から30年ほど経っている。親のころの学校は割合にのんびりでいい加減だと思っていた。学校に通ってみると、ルールが多く、学ぶことも多くなっている、と感じる。またこどものほうが親より成績がよう、インタビューにも論理的に、また客観的に述べる。
 美術の授業ではこんなものが何の役に立つんだ、と洩らす男もいた。弁護士秘書をして、死んでしまった妹の子を育てている。算数は苦手だが、美術の価値について、男に語ると、男も納得いったような表情をした。
 この学校もよくやるもんだと思う。
 アメリカの学校で、すべて生徒に楽器をに触れさせることが方針の一つだった。市民が楽器指導をやってくれる。やってみたい楽器が選べるのだ。赤ちゃんぼ重さのものを抱いたり、背負ったりする実感を得させる宿題もあった。
 学校はやりようによってナマケミノの巣にもなるし、能力を引き出し、集団生活での注意点なども教えてくれる社会への橋にもなる。

 ぼくは以前にも書いたが、教育について、あるシステム作りを提案したい。
 妊娠をした母になる女性は月に一回の検査診断のあとに別教室で、2時間程度の講習を義務づけることである。父になる人も最後には参加する。

 人類がどうやって進歩したか、胎児期に受精の瞬間から生命の歴史を再現し、産まれたあともなお成長を続けることも、父母の役割や父母がやってはいけないことなど、再教育をうけていただくのがよいと思う。
 右に倣えが大好きな日本人もイギリスの学校を真似ることができるだろうか。もう余裕はないような気がする。女性が働くことがなんだか輝いているようだから、仕事があるからいけないわよ、という反応になりそうである。しかし、精神の病気のおおかたの原因にもなる時期のことである。薬で治るとも思えない。結核を駆逐した人類に今立ちふさがっているものは「うつ病」という病である。

 ぼくは男と女は法的に平等であるが、役割が共通部分と違う部分があると思っている。
胎児期から2歳までは母親からのオキシトシンホルモンによって愛情をもって育てられるのがよく、男は経済的な安心感を与え、家族を守る姿を見せるのがよいと思う。そうであれば自殺やいじめはしないし、うつ病にもならない、とぼくは思う。男は女に威張る必要もない。気がつけば子育ても手伝えばよい。妻が疲れてるなあ、と思えば何か気晴らしになることでも勧めてみるとか、役割の一部を引き受けることもあるだろう。

 人間は関係性が絶対の生物である。生き残っていくための複雑な脳が作ったのは、自己で、他者
自己のなかに自己他者も中の他者および自己である。これはそうとうに複雑系である。
 この複雑系を成人するまで引き延ばすことで脳の成長を可能にした。

  

本が積まれて待っている

2018年09月09日 | 日記
  一連の災害で多額の再建費用が必要になる。災害前に政府は102兆円を予定して予算建てしている。当然国債の発行もある。政府からの拠出金は税金か借金によるものである。そのお金は災害地の被害インフラや住宅改装などに使われる。必要なことなのだから、公正な価格競争でやってもらいたい。予算の一部を災害被害に向けることも考えなければならないだろう。
 安部首相はいかにも日本は景気がよく、税収が増え、株価は上がり、雇用率はよい、と自らの実績かのように言っているが、財政はパンク寸前で、日銀も暗中模索の状態である。政府の信用が落ちるか、日銀の信用が落ちるか、懸念の状態だ。

 それにしても災害が多すぎ、いつ自分も襲われるか知れないという不気味さがある中、また台風が生まれている。

 台風のせいなのか、曽根貸別荘で羽蟻が大量発生した。白蟻ではなく黒蟻が羽化したものだ。幾つかのガラスに群れをなしている。巣が見つからないので、蟻の巣コロリで対応するしかない。羽蟻は生殖のため、移動するための蟻である、とネットで知った。

 また今年全く見なかったゴキブリが昨日2匹、その前の日1匹出た。気温が下がったからなのか、ヤモリの活動が台風で弱まったのか。エアコンを取り付けるときにできるホース穴からくるようである。
 
 吸水性にすぐれているという苔をコメリで見つけ、ゼオライトとともに、購入した。そこにセメントと混和剤を入れて、保水性のある塊を作ってみる。またセメントと砂利と混和剤を混ぜて透水性の塊を作ってみる。その配合のしかたを試している。

 本は読みかけたまま置いてあったアマゾン奥地の川沿いに分散して住む「ピダハン」についてアメリカ人宣教師が住んだ記録を再び読んでいる。これで2回目である。
 ピダハンは文明社会と接触しているが、融合していない。独自の言語を持ち、文明社会とは異なる価値観をもつ。親戚を表す言葉は親と子、兄弟姉妹しかない。あとは同胞という言葉で括られる。いつも笑顔である。魚を獲るのを失敗しても、お腹が空いている時でも笑う。子供は大人と対等の存在である。子供を守るということもない。
 すでに読んだ本なのに、それをきちんと自分の中でうまく取り入れられていない。興味本位で読んでいるのではない。自分のこれからの思考や感性に取り入れたいとも思っているし、文明人が学ぶべきこともあろうかと思うからだ。神の観念もない。神様? 見せてみてよ、という。
 暴力を嫌う。
 読みたい本が積まれて待っている。

自然の摂理

2018年09月08日 | 文学 思想
 日本列島はどうなっているんだ。人の災難の陰で悪さをしているものたちは蠢いているのだろう。風が吹けば桶屋が儲かる。関西国際空港も想定外のことだった。活断層のない北海道の千歳付近も想定外。
 岩手、宮城、福島、茨城、千葉、そして熊本、岡山、広島、そして大阪、北海道。自然の脅威になすべくもない。ただ佇み、そひてようやく片付けるだけだ。思っただけでも放って逃げ出したくなることだろう。
 神戸の大震災のとき、神戸を離れてバリ島に住みはじめた人を数人知っている。生き残れば禍が転じて福となることもある。そういう人も数人知っている。
 一呼吸おいて、ぼちぼちやりなおそうか、と思えればいいのだろう。だれを責めることもできやしない。宗教がこの自然をコントロールすることはできない。

 女子学生たちが貸しきりバスでやってきた。みな赤いハチマキしている。そこになにやら書いてある。「男落ちるな!」と書いてある。なんだろう、と好奇心がでてきたが、抑えた。
 バスの運転手さんはバス中での騒々しさに笑っていた。大阪からきたの女子たちだが台風被害はなかったのだろう。
 こうやって中間が集まってあそべるのも紙一重の運だ。なんだかテレビ報道をみていると虚しい。
 この学生たち、貸別荘を始めて以来、散らかせ、襖は外され、BBQ用木炭は散らかり、これふぇもかと思うくらいの惨状だった。この日、大量の羽蟻がは発生。みなびっくりしたことだろう。それが翌日にわかり、こちらもびっくりしたが、どうやら黒ありが女王ありと旅するために羽化したもののようだった。白ありだったら困る。台風のせいかもしれない。巣が危なくなって、子孫を残すために急いで羽ありを産んだのかもしれない。自然の摂理はぼくにはわからない。











楽しいということ

2018年09月05日 | 文学 思想
また名古屋出かけ、Cさん奥さん、息子さんも交えて話をした。息子さんは日本語はできるが中国語ができない。奥さんは日本語はややできる。Cさんは日本語を一方的に話すばかりで、ちょっと日常会話から外れるともうわからない。今日は実感のある、脳がおかしくならない会話だった。しっかり思い起こすことができる。
 ぼくの提案んは今後100年は続けられる壮大な計画である。資料を揃え、動画を揃え、しっかりと説明したつもりだ。中国の会社と付き合うには日本に住む中国人を間に挟んだ方がよいと判断した。
 Cさんはぼくより2つ年下である。
「金儲けよりも社会的に貢献できた方がいいですね「
「そう、そう、それ大事ね」と笑いながら答える。
「土曜日から上海に行って、それからあなたの仕事、さんとうしょうに行く」
「いつ帰ってくるのですか」
「わからない。成功させて戻ってくるよ」

 じっと聞く人を待っていた提案書だった。やがてやってくるであろう、とのんびり構えていた。その間に幾つも小説も書き、新しい商売も始めた。しかし、捲土重来意志は変わっていなかった。
 岡田さんの伝で、ぼくは釣り餌をふるように、彼に会わせてくれるように、紹介を頼んだ。
 うまくいくといいが、うまくいかなくてもそれはそれでいい。またチャンスは来る。急かないことだ。急くといいことはない。
 本はホモ・サピエンスがついに音楽(抑揚)と躍り(リズム)を覚えた時期に入った。それを胎児期の歴史と重ねてみる。成長するというのは生物的歴史を再現するということでもあるから、と思うからだ。こういう学習は楽しい。もちろん、中国に新しい提案ができるのも楽しい。


沈黙裁判 田中哲司

2018年09月04日 | 映画
 急に明日のために調べて事ができてまだ台風が来ない朝の間に仕事を済ませた。昼の1時くらいから猛烈な風が吹き始めたので、Wowow のドラマをDVDでカリテいたのでそれを観た。「沈黙裁判」。永作博美が主役で、弁護士役で田中哲司、刑事役者で杉本哲太、主人公を想う男は市原隼人が演じていた。田中哲司と若村真由美の芝居を見に行ったことがある。舞台では顔の表情などはわからない。しかしテレビでは微妙な表情もよくわかる。田中哲司は上手いと思った。たいした俳優だ。黙りこむ被告人を演じた永作博美よかった。
 こころ優しく、真面目な主人公が派遣家事手伝いをしていた家の老人がある日首を絞められて死んでいた。容疑者として主人公も女性が逮捕された。状況証拠しかないが、警察検察は起訴づることになった。
 このドラマではネットカフェ住人や、マスコミの決めつけや、警視庁の埼玉県警への意趣返しやら、老人の孤独やら、仕事がない弁護士の状況など現代社会の陰の部分が克明に描かれていた。
 「Dele」という今やっているドラマもよい深みのある。こんなドラマを作る人もいるんだ、と思う。万人受けしないと判断されるのか、「Dele」は夜の11時15分から。「沈黙裁判」は有料番組である。ぼくもWowwow に加入していないから、ゴールデン時間ではないわけだ。

 このドラマを見終わると、台風の風も雨も止んでいた。明日のJRはどうなるのだろうと思い、駅に行くと
これから検査が始まるので、なんとも言えない、ということだった。テレビでは大阪の被害が報じられている。関西空港がひどい被害だ。
 やれやれ、今回も我が家は金魚メダカも孫が採った川魚の稚魚無事であった。災害が多くなっているような日本。まだまだ台風シーズンは続く。逆に湖が荒れたおかげで今年の渡ガキはよい収穫だろう。このぐらいの楽しみがないと。

記憶が戻ってきた

2018年09月03日 | 日記
 記憶が徐々に甦ってきた。会った人が中国人夫妻で、前々日に話したことを夫であるCさんが確かめたくて、日本語がよできる奥さんに聞いてもらうために尾鷲に来たのだった。昭和55年に日本に来たというからまだ日本語に分かりにくいところがあるのだろう。だからぼくは名古屋でCさんと会った時と同じ話をしたのだった。そのこともあってか、尾鷲で話したことをひとつひとつ確実に覚えていないのだろう、という結論に至っている。それと寝ぼけていたこともあるだろうし、アルコールが入っていたこともあろう。

 昨日はネアンデルタール人の詳細について読んだ。絶滅した人類であるがぼくらの血液に5%ほどのネアンデルタール人の血が入っていると言われている。二十万年存続した人類である。ホモ・サピエンスは20万年存続できるだろうか。10人から20人の小さな集団は世界にバラバラにいて集団どうしのコミュニケーションはなかったようだ。最後のネアンデルタール人は何を思っていたのだろう。その間に氷河期が何回かあり、火山の爆発もあった。二十万年で技術が進歩したこともなかったらしい。わからないことだらけだが、もっと研究は進んでいくのだろう。旧約聖書から始まった読書の旅はいよいよクロマニョン人の登場となってきた。

 読みたい小説もるのだが、もっと先になりそうだ。アマゾン支流奥地に文明と接することなく暮らす人々の取材をした「ヤノマミ」の著者が「ノモレ」という本を出したので、それも早く読みたい。しかし体は一つしかなく、アルコールも飲んでしまう。なかなか進まない。
 明日には強烈そうな台風がくる。また金魚とメダカが心配で、早々と手当をしておいた。台風がくるたびに漁礁を流された台風19号を思い出す。しかしそれは何年だったか覚えていない。
 伊勢湾台風を幼心によく覚えている。保育園のナツメの木が倒れたのにはびっくりした。命が危ないなどとは思ってもいなかったから、桜町の通りに水が溢れ、興奮して泳ぎ、遊んでいた。思えば汚いものだ。親ものんびりしたものだった。

脳が変

2018年09月02日 | 日記
 昨日「ブラタモリ」を見ていて、眠ってしまったような気がする。次の萩原健一主演の老人ドラマについては何もおぼえていない。ところが細君は起きていたという。この日、4時半からビジネスの話をコメダでした、したような気がするがそれは遠い昔のような気がする。
 細君が言うには、ぼくが「今日は何日だ?」と十回ほど訊いたという。
 時計を見ると11時半すぎになっている。「ブラタモリ」は7時半からだから途中でうたた寝し始めたのは7時45分くらいだと思うのに、細君は僕が起きていて、見ていた、次のドラマもみていて、わけがわからんと言ったそうだが、その会話もドラマもまったくおぼえていない。
 特に気にかかったのは4時半からの会話内容がまったく思いだせない。ちなみに夕食時缶ビール2本(350ml)と芋焼酎をロックで一杯のアルコールをとっていた。
 客との仕事話が思い出せないのには愕然とした。細君はぼくが今日も奇妙な言動をするなら病院に連れて行こうと思ったらしい。
 ぼくは本を少し読んで早々に寝た。翌日、起きると、いつもより遅く起きた。そして徐々に、昨日の仕事話がうっすらと遠い昔のように断片を思いだした。最後の結論やとちゅうで自分は何をいったか、相手はどんな反応をしたかも思いだ出せない。
 これは「ヤバイ」。脳の中で何かが起こったのだろう。ショーケンのドラマは今も思いだせず、仕事話もほぼ思い出せない。コメダに三人で行ったのだった。だれが勘定を払ったのかもわからない。遠い旅行したような感じであり、時間が遠くへ過ぎた感じがする。
 いまはしきりに順を追って思いだそうとしている。一過性の虚血? 脳梗塞? 不思議なのだ。