小さな秋満載である。
今日、棗の実と出会った。
不意に出会ったのである。
数年前に塩尻の街中で熟れきって落果した棗を食べて以来である。
「青棗」だったけれど、紛れもなく棗の実であった。

これは、利休棗である。
由緒正しいのである。
お抹茶を入れる道具の棗に似ていることから、棗と言われているのである。
なるほど・・・棗である。

「青棗淡き陽射しの葉影かな」

ねっ・・・ナツメでしょう。

棗は熟すと、この色になる。
飴色である。
ただし、食せばその感覚は「粉粉して」いるのであってそんなにうまい果実では無い。
もっとも余り生色はしないのである。
閑話休題。
今日はこれ以外にも、小さな黄葉に出会った。
数本の公孫樹の木の黄葉がかなり進んで居る一画があった。

この色は嬉しい。

「秋の蝶翔び舞う広さ限られて」

家の近くでは、キバナコスモスが満開の態である。
秋の蝶が飛翔するステージである事は言を俟たない。
コスモス、黄葉、秋の蝶、周り中に秋の季語が横溢している。
歳時記でも秋のページ数は格段に多い。
今詠わなければいつ詠うの?
そんな風に聞かれそうだけれど・・・なかなか俳句は産まれてこない。
残念である。

秋の雲は遊弋する。

そして平仮名の様である。
確かにそうである。
荒 野人
今日、棗の実と出会った。
不意に出会ったのである。
数年前に塩尻の街中で熟れきって落果した棗を食べて以来である。
「青棗」だったけれど、紛れもなく棗の実であった。

これは、利休棗である。
由緒正しいのである。
お抹茶を入れる道具の棗に似ていることから、棗と言われているのである。
なるほど・・・棗である。

「青棗淡き陽射しの葉影かな」

ねっ・・・ナツメでしょう。

棗は熟すと、この色になる。
飴色である。
ただし、食せばその感覚は「粉粉して」いるのであってそんなにうまい果実では無い。
もっとも余り生色はしないのである。
閑話休題。
今日はこれ以外にも、小さな黄葉に出会った。
数本の公孫樹の木の黄葉がかなり進んで居る一画があった。

この色は嬉しい。

「秋の蝶翔び舞う広さ限られて」

家の近くでは、キバナコスモスが満開の態である。
秋の蝶が飛翔するステージである事は言を俟たない。
コスモス、黄葉、秋の蝶、周り中に秋の季語が横溢している。
歳時記でも秋のページ数は格段に多い。
今詠わなければいつ詠うの?
そんな風に聞かれそうだけれど・・・なかなか俳句は産まれてこない。
残念である。

秋の雲は遊弋する。

そして平仮名の様である。
確かにそうである。
荒 野人