エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

昼の月

2012年10月11日 | ポエム
昼の月は秋の季語である。
澄み渡った空に、月が浮かぶ。
澄んだ分、月が鮮明に見えると言うわけである。







「澄み渡る鮮やかに尚昼の月」







月の少し右下を飛行機が駆けていった。
秋の片仮名のような雲に躓かないように・・・と願う。

月と言ったら、ススキである。
お月見には、ススキが付き物である。

部屋の中から、月を眺める。
その月にススキが懸かる。

日本的な眺めである。
出来れば壁は土壁であって欲しい。







「夢うつつゆらりゆれたるすすきかな」







昼の月にススキ。
誠に結構!
である。



      荒 野人

金木犀の花

2012年10月10日 | ポエム
金木犀の花が咲いた。
金木犀の花がもう散り始めた。



季節は急ぎ足である。
金木犀は、初恋の薫りである。

それは不意に訪れ、不意に去った。
薫風と共にである。







「金木犀在処を探すよすが無く」







金木犀は、中国の桂林が想起される。
中国語で桂林の桂は木犀の意である。

木犀の林が、桂林である。
金木犀の季節、桂林は香りが充満する。

「噎せかえる」ようにである。







「君に触れ聞き感じたり金木犀」








二度目の桂林、驟雨があり、雨上がりの煙る川下りを体験した。
素晴らしい景観であった。



とまれ、ここまで散っている。
季節は急ぎ足である。

秋の季語は多い。
急ぎ足で詠まなければ、消化不良に終わってしまう・・・。

いざ、詠わん!
いざ、生きめやも!




      荒 野人

からたちの金の実

2012年10月09日 | ポエム
からたちの金の玉に出会えた。
まろいまろい金の玉である。
枳殻(からたち)は春の季語だけれど、枳殻の実は秋の季語である。



昨日拾ってきた「からたちの実」を手の平で転がしていた。
テレビの番組が変わって、佐渡裕の「題名のない音楽会」に変わった。

ぼくが音楽を学んでいた頃から、ずっと続く番組である。
ぼくの中学時代の司会者は、確か黛敏郎であったか・・・?

森麻里が「からたちの花」と「落葉松」を歌ったのである。







「柔らかな金のビロードからたちの実」



「からたちの実きみの乳房の重たさや」







この二つの金の玉を拾った。
ビロードのような肌触りで、温かかった。
この枳殻の実に出会ったのは、東久留米の落合川の源流に向かう途中である。



ここが源流の一つ。



水神様が畔に祭られている。
自然の息吹を感じられる場所である。



川の面の落ち葉が秋である。
落ち葉は躊躇いながら流れていくのである。

時として滞り、時として流れよりも早く先を急ぐ。
落ちても生きている。

北原白秋の「からたちの花」をもう一度読みたいと思いませんか?

      からたちの花

   からたちの花が咲いたよ。
   白い白い花が咲いたよ。

   からたちのとげはいたいよ。
   いい針のとげだよ。

   からたちは畑の垣根よ。
   いつもいつもとほる道だよ。

   からたちも秋はみのるよ。
   まろいまろい金のたまだよ。

   からたちのそばで泣いたよ。
   みんなみんなやさしかつたよ。

   からたちの花が咲いたよ。
   白い白い花が咲いたよ。

ぼくは、この歌を口ずさむ時胸が熱くなる。
何故なのか理由は分からない。
ただ、遠い日の母の思い出と繋がっているのかもしれない。




      荒 野人

パラグァイよ、父よ

2012年10月08日 | ポエム
パラグァイ。
内陸のピラポ市の日本人墓地に父の墓がある。
父の遺言に基づいて、分骨したのである。

墓を経てるのに、ぼくも出かけたのであった。
日本人とドイツ人がほぼ半数で構成される、移民による町である。



突然パラグァイである。
雨上がり、光が丘公園に出かけたのであった。



なんとパラグァイ・フェスティバルが行われていたのである。



前日から行われていたのだと知り、残念な思いが過ったのだった。
きっと二日間出かけただろうに・・・その思いである。



あの、パラグァイの広大な大地・・・もちろんジャングルを切り開いた先人の御苦労の賜物である大地である。
大豆畑。



走馬灯のように映像が流れていった。
ふっと胸が詰まった。



父が愛してやまなかった、ピラポの人々がそこにいたのである。



彼女は、NGOの代表理事。
パラグァイのために活動している。

「NGO EGAO」である。
このNGO立ち上げの前は、ジャイカのメrンバーとしてパラグァイにいたのだと言っていた。

若きパトスが、働いている。
ありがとうございます!と言いたい。

あのピラポを貫く幹線道路。
枝道の未舗装の道が思い出されてならないのだ。
ぼくは・・・何をしただろうか?
自責の念が湧くのだ。

この祭りの屋台でぼくは、マテ茶を一袋買い求めた。
熱い夏の一日、スペインの統治下、イエズス会の布教の拠点としての遺跡が多いけれど、その場所でテレレを回し飲みした。

お湯を注げば「マテ茶」冷水を注げば「テレレ」である。







「遥かなるパラグァイの空霊高く」





父の墓をほっぽらかしてしまっている。
ピラポの人々が清掃して下さっている。

ぼくが人生を終わる前には、行かずばなるまい。
父よ、待っていて頂けるだろうか。
いや、待っていて頂きたいのである。


       荒 野人


追伸;今日はなんだかまとまっていない。父を思って胸が詰まっている。
   ぼくは親不孝である。

秋夕焼け

2012年10月07日 | ポエム
秋の夕焼けは、物悲しく且つあざといまでに美しい。
その美しさは、決して繰り返されないと言う刹那の美学である。

明日からは10月第二週だというのに、相も変わらず入道雲が空を覆った昼。



いつまで現れるのだろうか?
正に「雲古」である。

この日、昼間に外を歩いていて汗ばんだ。
額と言い、首筋と言い汗がじっとりと滲み出てきたのであった。

季節は不謹慎である。



斜陽の時。
鮮やかな、しかして艶やかな夕焼けが西の空に描かれたのであった。







「儚さを読み解く文字や秋夕焼け」



「空に有る生々流転の秋夕焼け」







この鮮やかな斜陽の光よ!



東の空は、奥行きのある雲で覆われた。
夜、10時を迎えんとする時刻、咄嗟とも言える「驟雨」が外界を襲った。

埃の匂いが立ち込めた。
だがしかし刹那の出来事であった。

この驟雨は、秋の長雨の始まりだった。
今日もまだ降り続き、しとしとと世界を濡らしている。
月の女神の涙か?

月の女神・・・ルナである。
ローマ神話で、月の女神。
ギリシャ神話のセレネである。



遠い記憶では、いつの間にかルナ信仰は地下に沁み込んでしまった。
だからこそ、月は儚くも美しい。

抒情的でさえあるのだ。



      荒 野人