ソロツーリストの旅ログ

あるいはライダーへのアンチテーゼ

振り返ってみるとずうっとオートバイがいちばん好きだった

オートバイの孤独

2012年05月31日 | R100RS 2本サス (1981) 銀じぃ

孤独を傍らに置けないオートバイ乗りは

真の意味でその楽しさを知らない。

徒党を組んで走るばかりでは、ただの烏合の衆だ。

何が悪い?と云うならば敢えて云わぬが、

そんなのオートバイ乗りではない。

得体の知れない不安から逃れるために仲間を求めても

そこには何の解決の答えはない。

あるとすれば、それは一時の気休めで

それが証拠に、ひとりになればまた云いようのない不安に苛まれる。

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オートバイに乗ることは、ひとりであることを確認する行為だ。

ひとりであることに安堵できれば、ひとりであることは何も怖い事ではない。

むしろ、わずかな共通点でつながる仲間の方が危うくて恐ろしい。

「絆」という言葉が流行した時、そこにあるそこはかとない気味悪さに寒くなった。

「絆」とは断つに断てない絆し(ほだし)のことだ。

元々は牛馬をつなぎとめる綱の意。

絆されるとは、束縛を意味する。

災害で窮地に陥った人々との絆を求める。

なんという違和感だろう。

一億火の玉。

あんなにも毛嫌いするイデオロギーに人々は安易に飲まれる。

オートバイを愛し、オートバイを日々傍らに置くものが

安易に集団に飲まれてはいけない。

ボクたちは世間から浮き上がっている分、もっと冷静に風の流れを読めるはずだ。

いや、そうで無くてはいけないのだ。

愛する女を決めるより、仲間を認めるのはむずかしい。

物分かりが良すぎるのも、どうかと思うぜ。

           〇

リアサスのシールが抜けた銀じぃ(R100RS)で走りに出た。

元々すでにヘタっているから、走りに大きな違和感は感じない。

まだジンワリにじむ程度でそれ程でもない。

オーバーホールと云う選択肢は無いようなので、リプレイスするしかない。

ヘイゴンか、アイコンか、オーリンズか。

未再生であることにこだわっている訳ではないけど、

性能がリファインされるのは望んでいない。

R100RSが本来持つキャラクターを無くしたくはないのだ。

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アイコンくらいがいいのかな?

その昔、赤いショック(アブソーバー)のコニーと云えばなかなかどうして

その性能もさることながら、おしゃれなリプレイスパーツだった。

今になってKONIにお世話になるとは・・・・・・感慨深い。

といってもまだアイコンに決めた訳じゃあない。

関係ないけど、オーリンズって「オー」って云ってる部分は

オーウムラウトなので、正確には「(ォ)エーリンズ」だよ。

どうでもいっか?

            〇

物分りがいいってことは、それはひとつの才能だし、

こんなめんどくさい世の中では、大切な資質なのかもしれない。

ただあまりに簡単にオーム返しの木偶の坊に成り下がってはいないか。

たとえ不利益を被っても、守るべき自我はないものか。

エゴでは飯は喰えぬ、とこないだ自分で云ったのだけれど、

やせ我慢が必要な時もあるだろう。

「自分を褒めてやりたい」とはオリンピックメダリストの言葉だが、

どこまでいっても自分を甘やかしてはいけない、とボクは思う。

なぜなら自分に甘いのが人間の常だから。

オートバイに乗っていると、

ボクはなんて自分に厳しいのだろう、と思うことがある。

真夏の太陽に焙られ、冷たい雷雨に打たれ、木枯らしに指の感覚を無くす。

そしてその度に、ああこれが生きるということかと、改めて気付かされる。

そんな時、ひとりである不安は木端微塵に砕け散り、

真の意味での孤独を手に入れることができる。

ひとりでも生きられるが、ひとりでは生きられない。

ひととはそういう生き物だ。