自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆ドキュメント「平成と私」~下~

2019年04月11日 | ⇒ドキュメント回廊

  新紙幣を2024年度に発行すると過日(9日)の記者会見で麻生財務大臣が発表した。新元号の次は新紙幣だ。1万円、5千円、千円の紙幣(日本銀行券)の全面的な刷新だ。このニュースでは、45兆円もあるとされるタンス預金を吐き出させることにあるのではないかと論評するコメンテーターの言葉が妙に説得力があった。

   1万円札の福沢諭吉は交代も、未来も変わらぬ「独立自尊」の品位

  1万円札の人物変更は聖徳太子から福沢諭吉に代わった昭和59年(1984)以来、40年ぶりというから確かにそろそろ交代の時期なのかもしれない。その福沢が19歳まで過ごした大分県中津市の旧居と記念館を訪れたことがある。平成24年(2012)10月のことだ。豪邸ではなく、簡素な平屋建ての家屋だった。天保5年(1835)に大阪・堂島の中津藩倉屋敷で生まれた。父の百助は堂島の商人を相手に勘定方の仕事をしていた。翌天保6年、父の死去にともない中津に帰藩することになる。

   中津の旧居近くに看板があった。これに福沢の文が引用されていた。「今より活眼を開て先ず洋学に従事し 自から労して自から食い 人の自由を妨げずして我自由を達し、・・・人誰か故郷を思わざらん 誰か旧人の幸福を祈ざる者あらん」(明治三年十一月二十七 旧宅敗窓の下に記 「中津留別之書」)。明治3年(1870)、中津に残した母を東京に迎えるため一時帰郷した福沢が旧居を出る際に郷里の人々に残したメッセージだ。「中津留別之書」は『学問のすゝめ』の思想のベースとも言われる。そのメッセージで心が揺さぶられるのは、「自から労して自から食い 人の自由を妨げずして我自由を達し」の箇所だ。その後の福沢を人生を突き動かす「独立自尊」の強烈なメッセージが読み取れる。

   ここで考えたのは、これは誰に発したメッセージなのだろうか、ということだ。翌明治4年に福沢は、新政府に仕えるようにとの命令を辞退し、東京・三田に慶応義塾を移して、経済学を主に塾生の教育に励む。その年、廃藩置県で大勢の武士たちが職を失い、落ちぶれていった。武士が自活できるように、新たな時代の教育を受ける学校が必要なことを福沢は痛感していたに違いない。「中津留別之書」はその強い筆力とメッセージ性から、武士たちに新たな世を生き抜けと発した檄文ではなかったのだろうか、と。では、なぜそのようなメッセージを武士に発したのか。武士たちが怨念を募らせて刀や鉄砲を手にすることで再び混乱の世に戻り、「自由が妨げられる」と危惧したのではないか。

  「中津留別之書」から30年後、福沢は慶応義塾の道徳綱領を明治33年(1900)に創り、その中で「心身の独立を全うし自から其身を尊重して人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云う」(第2条)と盛り込み、「独立自尊」を建学の基本に据えた(「慶応義塾」ホームページより)。翌明治34年(1901)2月、福沢は66歳で逝去する。武士が新たな世を生き抜く「人生モデル」を自ら示したのだった。法名は「大観院独立自尊居士」。

  平成の1万円札の主役を担った福沢から、令和は渋沢栄一に代わる。しかし、「独立自尊」の精神は未来も変わることのない人の品位である。

⇒11日(木)夜・金沢の天気    はれ

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★ドキュメント「平成と私」~中~

2019年04月08日 | ⇒ドキュメント回廊

    平成19年(2007)3月25日午前9時42分、日曜の朝、金沢市の自宅(木造2階)がぐらぐら揺れた。家全体が持ち上がるような揺れだった。NHK総合にスイッチを入れた。震度は石川県の七尾市、輪島市、穴水町で震度6強、志賀町や能登町などで震度6弱、珠洲市で震度5強を観測、震源は輪島市沖の日本海でマグニチュード7.1だった。「能登半島地震」と震災名が付された。石川県では死者1人、重傷者88人、軽傷者250人、住家全壊686棟、住家半壊1740棟など甚大な被害が発生した。ぐらぐら揺れた金沢の震度は4だった。

      ~被災地における取材者目線と被災者目線の違和感~

   このとき自身は金沢大学の地域連携推進センターでコーディネーターの職に就いていた。2年前の平成17年(2005)1月に北陸朝日放送報道制作局長の職を辞していた。50歳になり「人生ひと区切り」と。すると、かつての取材先でもあった金沢大学の理事・副学長から誘われた。平成19年に学校教育法が改正され、大学のミッション(教育・研究)に新たに社会貢献が加わることになるとの話だった。「地域にどのような課題があって、そのキーマンは誰か、宇野さんはよく知っているはずだ。新聞・テレビでの知見を大学で活かしてみないか」と。テレビ局を辞した年の4月に大学の地域連携コーディネーターに採用となった。

   当時から能登半島は過疎・高齢化、人口減少が急速に進み、「地域課題のトップランナー」と仲間内で称していた。そこに来て、さらに震災が追い打ちをかけた。余震が続く翌日、大学のスタッフとともに現地に入った。震源に近い海岸沿いの輪島市門前町では街並みが崩れていた。対策本部テントを訪ね、学生のボランティア派遣について問い合わせた。「余震が続く間は二次災害もあるので、しばらくは難しい」との返事だった。3日後の28日に学生や大学職員とボランティアに入り、門前町道下(とうげ)地区を中心にお年寄り世帯の散乱する家屋内の片づけ作業を始めた。その後は猿回しの一行を連れて避難所を慰問に訪れたりもした。

   被災現場である違和感を感じた。震災当日からテレビなどの取材陣が大挙して被災地に入っていた。半壊の家屋の前で茫然と立ちつくすお年寄りがいて、その横に半壊の家屋が壊れるシーンを撮影しようと身構えるカメラマンたちがいた=写真・上=。「でかいのがこないかな」という言葉が聞こえた。「でかいの」とは余震のこと。余震で家が倒壊する瞬間を狙っていたのだ。被災者にはこのカメラマンたちの姿はどう映っただろうか。私が前職(報道制作局長)だったら、違和感を感じなかっただろう。むしろ、「倒壊の瞬間を撮ったら、すぐネット上げ(全国放送)だ」とカメラマンたちを叱咤激励していただろう。取材者目線と被災者目線、どちらも理解できるがゆえに違和感を感じる自身がそこにいた。

   被災者目線で取材をする報道カメラマンもいた。学生と被災者宅で後片付けのボランティアをしているとき、共同通信の腕章を付けたカメラマンが玄関から入って来た。片付けか作業をしていた家主に許可を得て、靴を脱いで上がった。割れたガラスなどが散乱しているので、ケガをしないだろうかと、こちらの方が気を揉んだ。撮影を終え被災者におじぎをして去った。見事な所作だった。 

   政治の揺れに翻弄されたこともあった。平成6年(1994)3月、石川県知事に副知事の谷本正憲氏が初当選した。谷本氏はそれまでの知事が現職で死去したため、新生・公明・民社・日本新・社会の「非自民5党」推薦で出馬し、当時、自民党幹事長だった森喜朗代議士が推した元農水事務次官で参議員だった候補を破っての当選だった。この政治的な背景には、自民党を離党して新生党の結成に参画した奥田敬和代議士と森氏による、自民分裂による地域の勢力戦いだった。テレビ局時代は、政治取材と言えば、このいわゆる「森奥戦争」だった。

  その森氏は平成12年(2000)4月、脳梗塞で倒れた小渕総理の後を継ぐかたちで85代総理大臣に就任。石川県出身では、33代の林銑十郎、36代の阿部信行に続き3人目だった。しかし、「日本は天皇を中心とした神の国」発言や、ハワイ沖で日本の高校生の練習船がアメリカの原子力潜水艦と衝突して死者を出した「えひめ丸」事故(平成13年2月)への対応が問題となり、就任から1年で総理の座を小泉純一郎氏に渡した。退陣前の内閣支持率は9%(朝日新聞調査)と1桁を割っていた。

  谷本氏は現在7期目、そして森氏は政界引退も東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の会長の座に就いている(※写真・下は東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会ホ-ムページより)。

⇒8日(月)午後・金沢の天気   くもり

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☆ドキュメント「平成と私」~上~

2019年04月07日 | ⇒ドキュメント回廊

   「平成」から「令和」へと元号が変わるだけなのに、何か新しい、時代のイノベーションが訪れるような雰囲気ではある。「よい時代にしよう」という日本人の前向きな気持ちが込められる分、新元号の価値と意義はあるかもしれない。イエス・キリストの誕生年から始まる西暦だけだと数字が積み上がっていくだけで、100年ごとの新世紀しか話題は盛り上がらない。新元号まであと23日、平成という時代を自身の体感でまとめてみたい。

    ~平成初頭、テレビを通してかかわった松井秀喜と麻原彰晃~

    平成の時代が始まった元年(1989年1月)は新聞社の記者だった。その年の10月に系列のテレビ局に出向して、映像の世界を知ることになる。新聞社を辞して、新しく開局するテレビ局に入る。その北陸朝日放送が開局したのは平成3年(1991)10月だった。高校野球の中継番組が売りの一つ。当時星稜高校の松井秀喜は石川大会でも視聴率を上げた。なにしろ、石川大会で4本塁打を3大会連続で放った「怪物」だった。その松井が甲子園伝説をつくった。平成4年(1992)年8月16日、夏の甲子園大会・2回戦の明徳義塾高(高知)戦で明徳側が4番打者の松井を5打席連続で敬遠した。実況アナの「勝負はしません」が耳に残る試合だった。  

    そのとき、自身は金沢の本社で朝日放送から送信されてくる中継映像をチェックしながらニュース特集の構成をディレクターと考えていた。試合終了後の松井のコメントは「野球らしくない。でも歩かすのも作戦。自分がどうこう言えないです」と淡々としたものだった。宿舎に帰った松井本人から、勝負をしたかったというコメントが取れないか、現地の記者に指示出しをしていた。この5打席連続敬遠が松井の名を一気に「全国区」に押し上げた。11月のプロ野球ドラフト会議で4球団から1位指名を受け、抽選で交渉権を獲得した巨人に入団。背番号「55」。平成14年(2002)12月、ニューヨーク・ヤンキースと契約。平成25年(2013)5月5日、国民栄誉賞を長嶋茂雄と同時に授与された。 

    松井の生家は、甲子園大会歌の「栄冠は君に輝く」の作詞者、加賀大介が活動した同じ石川県能美市にある。松井の活躍と同じころ、その能美市で不可解なことが起きていた。プロ野球ドラフト会議の前月、10月に同市に本社がある油圧シリンダーメーカー「オカムラ鉄工」の社長にオウム真理教の教祖、麻原彰晃が就いて記者会見を開いた。同社の社長が信者で、資金繰りの悪化を機に社長を交代した、という内容だった。すでに社員には信者が送り込まれ、取材でも「教団に乗っ取られた」と地元の評判は良くなかった。ほどなくして会社は事実上倒産。会社の金属加工機械などは山梨県上九一色村の教団施設「サテイアン」に運ばれた。その後の裁判で、金属加工機械でロシア製カラシニコフAK47自動小銃を模倣した銃を密造する計画だったことが明らかになった。

    翌年の平成5年(1995)3月20日の地下鉄サリン事件。実行犯の一人だった林郁夫(医師)らがレンタカーで逃げた先が能登半島・穴水町の貸し別荘だった。4月、一緒に身を隠した信者の一人が別荘の近くで警官の職務質問を受け逮捕された。テレビのニュースで知った林郁夫は盗んだ自転車で貸し別荘を出て、金沢方面に向かう途中で警官の職務質問を受けて逮捕された。その後の林郁夫の全面自供により地下鉄サリン事件の全容が明らかとなる。麻原が逮捕されたのは林の逮捕から38日後の5月16日だった。

    平成初頭はまさしく宗教ブームだった。オウム真理教が盛んに信者を獲得していた。平成3年9月に放送されたテレビ朝日「朝まで生テレビ」では「激論 宗教と若者」と題しての討論に麻原彰晃が生出演した。部下だった上祐史浩、村井秀夫らの論客も出演し、他の新興宗教と激論を交わした。無名に近かったオウム真理教が一気に注目されるきっかをつくったのはテレビだった。

   平成30年(2018)7月6日、法務省は坂本堤弁護士一家殺害事件(平成元年11月)、長野県松本市でのサリン事件(平成4年6月)、東京の地下鉄サリン事件など一連のオウム真理教による犯行の首謀者、松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚らの刑を執行した。このニュースをテレビの速報テロップで知った。

⇒7日(日)午後・金沢の天気     くもり

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☆世界に拡散する「権力の腐臭」

2019年04月05日 | ⇒ニュース走査

     このニュースには驚いた。「なぜ再び」と。日産自動車の前会長、カルロス・ゴーン氏が4日早朝、東京地検特捜部に再逮捕された。本人の姿は隠されていたが、特捜部の車で自宅マンションから連れ出される詳細な映像がテレビで報じられた。この逮捕前にフランスのテレビ局「LCI」がネットを通じてゴーン氏にインタビューした映像が日経新聞Web版に掲載されている。「私は無罪だ」「フランス政府に言いたい。私はフランス人だ。フランス人としての権利を守ること求める」などと語っている。特捜部とゴーン氏側によるメディア戦が繰り広げられている。

   ゴーン氏側のメディア戦の仕掛け人は弘中惇一郎弁護士だろう。メディアを逆手で上手に使う。印象的な事件は、2009年6月に障害者団体向け割引郵便制度悪用事件に絡んで、厚生労働省の課長だった村木厚子氏が大阪地検特捜部に逮捕された事件。同年11月に保釈請求が認められ、村木氏が保釈後に記者会見した。容疑事実を強く否定し、改めて無罪を主張した。会見で被告に事実関係を語らせることで、被告とメディアとの距離感を近づける。すると、メディアは検察側の捜査手法に目を向け始める。この事件では翌年9月、大阪地裁は村木氏に無罪の判決。その後、主任検事が証拠物件のフロッピーディスクの内容を改ざんしたことがメディアによって発覚する。

   ゴーン氏は記者会見を予定していた。今月3日に開設したツイッターで「I'm getting ready to tell the truth about what's happening.  Press conference on Thursday, April 11.」(何が起きているのか真実をお話しする準備をしています。 4月11日木曜日に記者会見をします)と述べている。うがった見方だが、記者会見となれば状況が一変するかもしれない。東京地検特捜部への捜査手法にメディアの目が向きだすと収拾がつかなくなる。村木厚子氏の事例のように。「弘中メディア戦略」を警戒したのか。逮捕はツイッターの翌日の4日早朝なのでタイミングが合い過ぎる。

  ゴーン氏の逮捕は、有価証券報告書に自身の役員報酬の一部を記載しなかったとして金融商品取引法違反で2回。さらに、日産に私的な投資で生じた損失を付け替えたとする特別背任で3回目の逮捕。今回4度目の逮捕容疑は、ゴーン氏が中東オマーンの販売代理店に日産資金17億円を支出し、うち5億6300万円をペーパーカンパニーを通じてキックバックさせて日産に損害を与えた会社法違反(特別背任)だ。このオマーンの販売代理店を経由した資金のキックバックは、フランスのルノーでも疑惑が浮上している。会社組織の権力者による不透明な巨額資金の流れが世界に拡散している。

  「Power tends to corrupt, and absolute power corrupts absolutely.(権力は腐敗する。絶対的な権力は絶対に腐敗する)」。イギリスの歴史家、ジョン・アクトン(1834-1902)はケンブリッジ大学で近代史を教え、フランス革命を批判した。ゴーン氏をナポレオン・ボナパルトにたとえると語弊があるかもしれないが、栄華の極みの最終章には没落がある。今回の事件に「権力の腐臭」を感じる。

⇒5日(金)夜・金沢の天気    くもり

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★新元号、海外では理解されるのか

2019年04月03日 | ⇒トピック往来

   けさ3日の各紙は共同通信が1日と2日に実施した緊急世論調査(電話)の結果を報じている。新元号については73%が「好感が持てる」と答え、「好感が持てない」は15%だった。好感が持てると答えた理由は「新時代にふさわしい」35%、「耳で聞いて響きがよい」35%、「伝統を感じさせる」28%だった。逆に好感が持てない理由は「使われている漢字がよくない」42%、「耳で聞いて響きがよくない」38%だった。(※写真は総理官邸ホームページより)

   世論調査の結果は、周囲の反応と同じだ。「語感がスマートでいいね」「万葉集からの出典が新しさを感じさせる」という知人が多い中で、「令という文字が命令を連想して気にくわない」と顔をしかめた人もいた。

   1989年1月に小渕官房長官が「平成」を発表したとき、「薄っぺらい文字だ」との印象だった。その後、『史記』にある「内平外成」(内平かに外成る)の言葉を知り、国内が平和であってこそ、他国との関係も成立するという意味だと理解した。軍部の台頭から大戦を招いた昭和の経験を平成の世に活かそうという意義が二文字に込められているとも教えられ、大いに納得したものだ。

   それにしても新元号の発表によって、内閣支持率が前月から9ポイント伸びて52%、不支持率は8ポイント減り32%となった。一過性の数字かもしれないが、それだけ新元号の評価が高かった、ということだろう。

   ところが、海外メディアの反応をリサーチすると、「the new Japanese Era」「REIWA」を伝えているが、全般に「冷たい」との印象だ。イギリス「BBCテレビ」Webニュースでは、Japan has announced that the name of its new imperial era, set to begin on 1 May, will be "Reiwa" - signifying order and harmony.(日本は5月1日に始まる新しい天皇の時代の名称が「レイワ」になると発表、これは秩序と調和を意味する)と、令をorderとあて、淡々と伝えている。

   1日付のアメリカ「ニューヨークタイムズ」には首を傾げた。見出しでJapan’s New Era Gets a Name, but No One Can Agree What It Means日本の新時代の名称は決まったが、誰もそれが意味するものに同意できない)。Agreeは単に「意味が分かりにくい」という解釈かと思ったがそうではなかった。政治的な意味合いだった。

  記事では、Naruhito’s reign will be called Reiwa, a term with multiple meanings, including “order and peace,” “auspicious harmony” and “joyful harmony,” according to scholars quoted in the local news media.(日本の報道によると、ナルヒトの治世は「レイワ」と呼ばれ、「秩序と平和」「縁起の良い調和」「喜びの調和」などさまざまな意味がある)と述べている。

  その後の記事で、Some commentators noted that Mr. Abe’s cabinet, which is right-leaning and has advocated an expanded military role for Japan, chose a name containing a character that can mean “order” or “law”.(一部の評論家は、右寄りの安倍内閣は軍事的役割を拡大することを主張しているが、「秩序」または「法」を意味する文字を含む名前を選んだ、と述べた)と。全体の文脈は、安倍内閣は軍国化を進めるために、 “order” or “law”を意味する「令」という文字を込めており、この政治的に意図された元号に国民は同意していない、となる。

  この記事を読むと、日本人の感覚と随分とずれていると感じる。それでは、同意していない国民の世論の73%が新元号に好感を持つと答えた理由をニューヨークタイムズの記者にぜひ分析してほしいものだ。

⇒3日(水)夜・金沢の天気     くもり

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☆平和で一人ひとりが輝く「令和」を願う

2019年04月01日 | ⇒メディア時評

     「大化」(645年)から248番目の元号が「令和」に決まった。午前11時35分から総理官邸で開かれた会見で、菅官房長官が墨書を掲げて新元号を公表する様子をネットの動画中継を観ていた。なんと平和なことか。昭和、平成、そして令和の時代を生きることは喜びではないかのか、ふと気づかされた。平成の世と同じく、令和も戦争のない平和な時代であってほしいと願うばかりだ。

  令和は万葉集の梅の花の歌三十二首の序文にある『初春の令月にして 気淑く風和ぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫らす』から引用したもの(菅官房長官の説明)。万葉集は1200年前の奈良時代に編纂された日本最古の歌集である。この万葉集の序文を読み解いてみる。「初春の良い月に さわやかな風が心地よく吹いている 梅の花は鏡の前の白粉(おしろい)のように美しく咲いて」と、ここまでは読める。しかし、「蘭は珮後の香を薫らす」の「珮後(はいご)」の意味がよく分からない。「珮」は腰帯とそれにつりさげた玉・金属などの総称とある(三省堂『大辞林』)。「蘭は腰帯に付けた香りの飾りのように薫っている」という意味だろうか。

  自然と人の営みを美しく表現している歌だと思う。この序文の中の「令」と「和」を取って令和とした。安倍総理は記者会見で、「春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように一人ひとりが明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる、そうした日本でありたいとの願いを込めて決定した」と述べた。

  知人に「令和」の印象をメールで送った。「この言葉に込められた意義がすこし分かりにくいと感じながらも、語感とするとスマートな感じがします」と。さっそく返信があった。「『令』という字がちょっと冷たい感じがするものの、『和』があることでバランスがとれているかな、というのが最初の印象です。たしかにスマートですね。首相談話を読んで、日本人としての誇り、世界の平和を希求する心が感じられ、心が豊かになるように感じました。そして、この令和の書体が大好きです。平成のときの書体はどうしても好きになれなかったのですが、この書体もあって、個人的な好感度がアップしました。」と。

  厳しい寒さの後に咲き誇る梅の花のように、未来への希望とともに、一人ひとりが輝く国であってほしい。(※写真・上は総理官邸ホームページより)

⇒1日(月)夜・金沢の天気    あめ

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