シュバイツァーは青年時代、コンゴの布教で次々と倒れてゆく伝道者を助ける医者募集書を見て、アフリカ行きを決意しました。彼はその時のことをこう書いています。
「主のよびかけに対して『主よ、私がまいります』と単純に答えられる男女を教会は必要としている。」これがコンゴ伝道に関する説明書の結語であった。これをよみおえたとき、私は静かに私の仕事をはじめた。私の模索はおわったのであった。(『わが生活と思想より』白水社)
シュバイツァーの「召命」として知られるエピソードです。神に呼ばれて、ある責務を与えられることを、キリスト教では「召命」(vocation)と言いますが、ここではシュバイツァーの篤信と誠実な人柄を物語るものとして一般的に理解されます。
一方、『創世記』のイサク奉献のエピソードでは、アブラハムは「なんじのひとり子イサクを燔祭に捧げよ」と命じられ、イサクを「いけにえ」に捧げる寸前まで追い込まれます。アブラハムが神を畏れる人であることはよく分かっても、このエピソード自体はシュバイツァーの召命ほどには理解しやすいものではありません。逆に、イサク奉献が神の召命を端的に示すものであるのならば、われわれはシュバイツァーの神の召命について何も分かっていないことになります。
召命を「メッセージ」に対する、「メタ・メッセージ」であると考えると話は少し分かりやすくなります。内田樹さんの秀逸な喩えを使えば、ここにある「絵」がメッセージであるとすると、それを「鑑賞すべき絵」であることを伝える「額縁」がメタ・メッセージです。メッセージの解釈の仕方を指示するのがメタ・メッセージというわけです(『街場の文体論』ミシマ社 参照)。
メッセージの解釈の仕方を「指示する」には、指示された行為を受け取って、そのとおりに実行する人を想定しないといけません。「その言葉のあて先は他の誰でもない自分である」と聞き手に理解されてはじめて、メタ・メッセージたりうるのです。
シュバイツァーにとって「呼びかけに応えよ」という召命は、すでに手中にしていた社会的名声を投げうつことを意味します。そのことを引き受けることを含めて、召命はほかならぬシュバイツァーに届いたのです。実際この出来事の前から、彼は三十歳までは学問と芸術のために身をささげ、その後の生涯は人類への直接奉仕のために費やすのだと心に決めていました。召命は、まさにそのような準備をしていた人にこそ「ほかならぬあなたへ」と届いたのでしょう。
さて、自伝を通じて推測することのできるシュバイツァーの場合は以上のように解することができても、「なんじのひとり子イサクを燔祭に捧げよ」という命令がメタ・メッセージであることは、腑に落ちるように分かるものではありません。言葉のあて先が他ならぬ自分であることを理解したのはアブラハムであって、われわれではないからです。われわれにできることは、言葉がみずからに宛てられたものと想像することくらいです。
さて、自伝を通じて推測することのできるシュバイツァーの場合は以上のように解することができても、「なんじのひとり子イサクを燔祭に捧げよ」という命令がメタ・メッセージであることは、腑に落ちるように分かるものではありません。言葉のあて先が他ならぬ自分であることを理解したのはアブラハムであって、われわれではないからです。われわれにできることは、言葉がみずからに宛てられたものと想像することくらいです。
「アブラハムへの言葉を、あたかも自分に宛てられたものであるかのごとく考えてみよ」そのようなメタ・メッセージが『創世記』に込められており、これによってわれわれ自身が指示されているのだ、と考えると話の辻褄は合います。もちろん、そのようなメタ・メッセージを「私が」受け取る場合にのみ、このような機制は発動しうるのですが。
われわれは、もともと今述べたような循環の中に閉じ込められていることに対して自覚的でなければなりません。われわれは、「生まれてきてしまった」という頼りない事実から始めるよりしかたない存在だからです。
そして、この堂々巡りの循環の中において、「ほかならぬ自分宛て」の召命に出会うとき、人間は覚醒します。それはみずからすすんで選びとることのできないものであるがゆえに「召命」たりうるものだと思います。