歌人穂村弘のエッセイ集『蚊がいる』(角川文庫)所収「永久保存用」のなかの話です。
生産中止になるラミーの万年筆を慌てて買い込み、気に入って使っていたところ、机の上から転げ落ちて凹んでしまいます。
その凹みを気にしながら、あるマニアの人が自身のコレクションについて述べていたのを、穂村弘は思い出しました。その人は使う用、予備、永久保存用と必ず3種類を買うのだそうです。それにしても、予備用の位置付けはどうなるのだろうと考えているところに、穂村の担当する雑誌の短歌コーナーに次の歌が送られてきます。
どうせ死ぬ こんなオシャレな雑貨やらインテリアやら永遠めいて
穂村は、この歌をしみじみと良いと思い、選評を書きます。
「永遠めいた表情の『雑貨』や『インテリア』は、その『オシャレ』さで私たちを騙して真の永遠から遠ざけてしまう。『どうせ死ぬ』と腹を括ることで、初めて一瞬という名の永遠に触れる可能性が生まれるのかもしれません」
そんな選評を書きながら、後ろめたい気持ちが込み上げてくる。何故なら、そういう自分は全く腹を括れていない。永久保存の僕、を買いそうな私なのだ。
使う用の他に保存用を求めるのは、永遠めいたモノたちにさらに保険をかけて、永遠そのものにしたい、と願う心だろう。だが、求めれば求めるほど、全身の細胞のひとつひとつに「どうせ死ぬ」が鳴り響き、私は永遠から遠ざかる。逆。逆。逆。逆なのだ。「どうせ死ぬ」のなかにこそ、真の永遠はある。理屈はわかっている。だが…(72頁)
これは大上段に振りかぶった理屈を、みずから笑ってみせるという半捻りのようなものではないでしょう。「『どうせ死ぬ』のなかにこそ、真の永遠はある」これは偽らざる実感ではあるものの、そこに自足すること自体、自家撞着に陥ります。永遠をあきらめるための「どうせ死ぬ」だったのですから。
「どうせ死ぬ」は、とりわけ穂村にとって差し迫った実感です。穂村の評論『短歌という爆弾』(小学館文庫)に、死についての強迫観念のようなものが記されているのを思い出しました。
しかし、それと同時に腹を括れない自分もどうしようもない真実であって、この二重の方向に向かって激しく分裂するほかないのが、生きるということではないでしょうか。選評にみずから記した内容は、それだけを取り出して永遠の真理だと言ってしまえば、人生が引き受けなければならない二重性を回避することになってしまいます。
もちろん、こうやって文章にしてみて、この件一丁あがりだとするならば、穂村の心の叫びが返ってきます。「逆。逆。逆。逆なのだ」と。
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