姪の子どもに「サンタさん」の名前で絵本を送り続けています。
今年の一冊は、新美南吉著『でんでんむしのかなしみ』(大日本図書)でした。来年小学校に上がる子なので、ちょうど「かなしみ」という言葉も理解できる歳になっているかと考えました。
『でんでんむしのかなしみ』は次のように始まります。
一ぴきの でんでんむしが ありました。
ある ひ、その でんでんむしは、たいへんな ことに きが つきました。
「わたしは いままで、うっかりして いたけれど、わたしの せなかの からの なかには、かなしみが いっぱい つまって いるではないか。」
この かなしみは、どう したら よいでしょう。
でんでんむしは、友達のでんでんむしを幾人も訪ねて相談しますが、どのでんでんむしも同じように、「あなたばかりでは ありません。わたしの せなかにも、かなしみは いっぱいです。」と答えるばかりです。はじめのうちは落胆していたでんでんむしも、やがて、大切なことに気がつきます。そして、物語は次のように結ばれます。
「かなしみは、だれでも もって いるのだ。わたしばかりではないのだ。わたしは、わたしの かなしみを、こらえて いかなきゃ ならない。」
そして、この でんでんむしは、もう、なげくのを やめたので あります。
美智子上皇后が、かつてストレスが原因で倒れ、声を失われた時に、幼少期に親しんだ同書に再び触れることで、力づけられたのは有名な話です。
「かなしみ」は誰もが抱えていて、かなしみを埋めるために賑やかに集まってみても、塞がるものではありません。どこかで折り合いをつけて生きていかなければならないことを、必ず知ることになります。
「かなしみ」は目も眩むような深い谷底のようにも見えますし、どうしてでも退治しなければならないと思い込むのですが、そう思えば思うほど、谷底に吸い込まれてしまいそうになります。
うまい具合このあたりにいれば谷底には転落しないし、そこそこ楽しくやっていける、と割り切ることができれば、その場所で輝いている自分に気がつくこともできるでしょう。
ちいさい人が、その柔らかな心に「かなしみ」をきちんととどめることができますように。そう思いを馳せることができるのも、「かなしみ」が単に克服すべきものではないことを物語っているように思います。