犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

偶然が宿る器

2021-12-18 21:11:11 | 日記

遠方の出張先で、久しぶりに酒席に招かれ、したたかに飲んでしまいました。雪で交通手段が無くなればビジネスホテルに泊まろうと考えていましたが、JRのダイヤは動いていて、鈍行列車の駅ごとに扉が開く寒さに凍えながら、深夜どうやら家まで辿り着きました。
今朝、酒が残っているのか頭が少々痛く、列車のなかで縮こまっていた身体が重たいような気がしましたが、それでも布団から這い出して、茶道の稽古に向かいました。
きっと手先は動かず、手順も出鱈目だろうと思いながら始めた点前は、思いのほか滞りなく進みます。体調が良い時よりもむしろ無駄なく動けているような気がします。邪念が抜けることの手柄なのでしょうか。そう言えば「私が点前している」のではなく、「私のなかで点前が展開している」と感じる経験は、何度かありました。

前回ご紹介した『思いがけず利他』(ミシマ社)のなかで、中島岳志がちょうど同じようなことを書いています。
大学でヒンディー語を学び、インドでフィールドワークをしていた著者は、ヒンディー語の「与格構文」に注目しました。
「私はうれしい」という場合、ヒンディー語では「私にうれしさが留まっている」という言い方をします。自分の行為や感情が、不可抗力によって作動する場合、器のような主語に何かが留まるという構文が使われるというのです。主語の意志の力で何事かを行うことを基本に考える現代社会では、これはなかなか理解されにくい考え方です。

しかし例えば「私は日本語ができる」を、インドでは「私に日本語がやって来て留まっている」という与格構文を使う、という説明だと、なんとなくニュアンスは伝わります。私が日本語という言語を習得し所有するのではなく、私という器に言葉が宿り、私がいなくなっても言葉は器を変えて継承されるというイメージが、この文法によってもたらされます。
すぐれた数学者のインスピレーションも「私が」生み出したものというよりも、「私に」もたらされたものという表現の方が、正しく実態を言い表しています。本書にも引用されていますが、染色家の志村ふくみは次のように述べています。

ある人が、こういう色を染めたいと思って、この草木とこの草木をかけ合わせてみたが、その色にはならなかった。本にかいてあるとおりにしたのに、という。
私は順序が逆だと思う。草木がすでに抱いている色を私たちはいただくのであるから。どんな色が出るか、それは草木まかせである。ただ、私たちは草木のもっている色をできるだけ損なわずにこちら側に宿すのである。(『色を奏でる』ちくま文庫

中島岳志は前掲書で、数知れぬ偶然に晒されながら、人は今を生きていることを語ります。そして「あとがき」に次のように補足しています。

重要なのは、私たちが偶然を呼び込む器になることです。偶然そのものをコントロールすることはできません。しかし、偶然が宿る器になることは可能です。(176頁)

私が茶道の稽古を始めたことも、師匠に師事したことも、過去の練習の熱心さ具合もすべて偶然に過ぎません。「私が点前をしている」というよりも、私という器にそれらの偶然が宿り、「私という器のなかで点前が展開している」という感覚の方が、むしろ事実を正確に言い表しているのかもしれません。点前の未熟さを反省しながらそう考えました。

よろしかったこちらもどうぞ →『ほかならぬあのひと』出版しました。

 


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