犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

確かにそういう人にお会いしている

2022-08-13 12:44:20 | 日記

葉室麟の小説の主人公は、誠実で辛抱強く、高潔な人物が多いが、本当にそんな人がいるのか、とよく聞かれると葉室は生前何かに書いていました。そういうとき、直ちにこう答えたそうです、私は確かにそういう人にお会いして話をしている、だからそういう人を書けるのだ、と。
葉室は別のところで、筑豊の炭鉱労働者の記録文学を書いた上野英信に会いに行き、ただの学生だった自分を温かくもてなしてもらったことが忘れられない思い出だと述べています。そして上野を訪ねていった時の様子が、自身の作品『蜩ノ記』の冒頭部分にそのまま反映されていることに、作品を発表した後で気づいたとも述懐しています。
葉室がいう「確かにそういう(高潔な)人に会っている」という人のひとりは、上野英信に違いないと思い、拙著『ほかならぬあのひと』にもそのくだりを書きました。

葉室麟のエッセイ集は没後何冊か出版されていますが、最近著『読書の森で寝転んで』(文春文庫)に収録されているシンポジウムのなかで、葉室がまさに上記のことを述べているのを見つけました。

さっき、上野英信さんのお話をしましたけど、清廉な人間はいるんです。こんな立派な人間はいないよ、なんて言われますけど、俺は上野さんを見ているから、というのがすごくありますね。上野さん自身に関してもいろんな立場からの批判はあると思います。(中略)ただ、生き方の根底にある、人間としての矜持とか優しさとか、そういうものを自分としては上野さんから受け取っているので、そういう人を書くことにためらいはないです。(252頁)

この本のなかにもうひとつ、上野英信に関わるエピソードが載っていました。
『蜩ノ記』が映画化されたときのことです。監督は黒澤明の助手を28年間務めた小泉堯で、スタッフも黒澤組出身が多いので、その絵づくりのこだわりは徹底していました。役所広司演ずる主人公は家譜編纂を命ぜられており、これを岡田准一演ずる監視役の若い武士に、ほんの数ページ見せるシーンがあります。小泉監督は、画面に映る数ページだけに文字を入れるだけではなく、すべての家譜(本稿16巻、清書18巻、日記10巻)に文字を入れさせたのだそうです。
黒田家譜などの家譜資料を集めて参考に文章を作り、これを映画題字を担当した書家の弟子が筆耕したといいます。
映画づくりとはここまで徹底するのか、と葉室は驚きましたが、同時にこうも思ったのだそうです。役所広司演ずる戸田秋谷は葉室の小説のなかのフィクションだけれども、秋谷が書いていた家譜は本物に違いないと。そして次のように述懐するのです。

それでもいまになって思うのは、小泉組のスタッフが家譜と日記を白紙にしないで文字を埋め尽くしたように、わたしにとって、秋谷が書いたものは白紙ではなかったということだ。
秋谷が筆をとって書き記したものは、上野さんが書いた炭鉱労働者の記録であり、作品ではなかったか。(前掲書 147頁)

葉室が最晩年、癌を患ったとき、困難な闘病になるから一緒に伴走してくれと告げられた担当編集者は、その姿がまるで『蜩ノ記』の戸田秋谷ではないかと感じたそうです。新聞の追悼文に載っていました。
上野英信のような人がいたから、自分はこの世の中を善きものとして描くことができる、その世界を善きままにバトンとして受け渡したい。葉室の晩年の多作には、そのような思いが込められていたのだと思います。


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