犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

中村哲の「三無主義」

2022-08-06 21:23:01 | 日記

最新のペシャワール会報(No.152)に、「三無主義」と題する中村哲の1992年の文章が載っていました。しばし考えさせられる内容でしたので紹介します。
それによると、ペシャワール会の理念を尋ねられたとき、「無思想、無節操、無駄」の三無主義だと言ってケムに巻くようにしている、というのです。

「無思想」とは、どだい人間の思想などタカが知れているという現地体験から辿り着いたものです。哀れな難民を助けなければと頑張っている外国人ボランティアの暗い表情と、難民キャンプで食うや食わずの子どもが見せる明るい笑顔とを比べてみれば、何も失うものがない者がどれほど強いものかと感じるのだそうです。どんな立派な志でも、自分の業績や所有としてしまうと、気づかぬ傲りや偽りを生むと確信しているのだ、と。

「無節操」のくだりでは、乞食から募金を受け取った話を披露しています。
ペシャワールの「職業的乞食」は実に堂々としていて「神は喜びます」と、施しを求めるのだそうです。もう少し腰の低さがあった方が実入りが良いのではないか、と問うてみると、その乞食は次のように言うのだそうです。
「貧者に恵みを与えるのは神に対して徳を積むことです。その心を忘れてはザカート(施し)はありませぬ」
その乞食が高僧のように見えた中村は、こう応じたそうです。
「私もはるか東方から来て、かくかくしかじかの仕事をしておる。これもザカートということになりはしないか。ならばあなたも我々の仕事に施しをしなされ。神は喜びますぞ」
そうすると、その乞食は躊躇なく集めた小銭を中村に渡し、中村を大いに驚かせたのだそうです。それ以降、惨めたらしい募金はせず、年金暮らしの千円も大口寄付の数百万円も、等価のものとして一様に受け取るようにしたのだそうです。

最後の「無駄」については、もっとも考えさせられました。
後で無駄なことをした、と失敗を率直に言えないところに成功は生まれない、と中村は言います。いつも成功のニュースばかり届けて喜ばせるのが目的となっては本末転倒ではないか、そもそも我々の仕事自体が経済性から見れば、見返りのない無駄なのだから、と。
これは、普通の感覚からは難しい理路です。失敗も成功も等しく受け入れようというのですから。しかし、次の文章を読むと、不意に喝を入れられた思いがします。

時に募金のために活動をアピールすることがあっても、我々は自分を売り渡す騒々しい自己宣伝とは無縁であったと思う。この不器用な朴訥さは、事実さえ商品に仕立てるジャーナリストからもしばしば煙たがられた。だが、こうしてこそ、我々は現地活動の初志を見失うことなく活動を継続できたのである。

魂の自由を求め、それを本当に実現しようとした者の言葉にほかなりません。


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