働く若い人たちに接することの多い人が、しみじみこう言われるのを聞きました。
最近の若い子たちは「ありがとう」と言われることを目標にして生きているようなところがある。つまりは社会的な承認欲求を満たされることを最終目標としているようだ。ところが自分から「ありがとう」と言うことを心がけている人は稀にしかいない。これは、課題をクリアするごとに承認を受けるような教育を受けてきたせいじゃないだろうか、と。
なるほど、私の経験に照らしても、今の若い人に限らず、そのような傾向があるのかもしれないと思います。
「ありがとう」を言われるのを期待する人が、社会的承認を欲しているのなら、その人は社会的承認というみんなの共通目標を認識しているはずで、その人もおのずから「ありがとう」と口をついて出るようになるのではないか。しかし、そうではなく、ここにはもっと根深い問題があるように感じます。
若い人たちが「ありがとう」と言われることを目標とするのは、何か小心翼々とした生き方を強いられているからであって、「ありがとう」と言う余裕すら失っていると考えた方が、腑に落ちるように理解できるように思うのです。
そこで、こんな極端な話に置き換えて考えてみました。
たとえば、先方の要望にこちらの行動がマッチしていれば取引成立で、その時初めて「ありがとう」と言ってもらえるルールが、世の中を覆っているとします。そんなルールがあることを忘れるほど、それは身に染み付いているのです。ある日、何かの拍子に「ありがとう」を言われなかった時、その人は「取引成立ならありがとうのルール」の世界に住んでいて、自分の行動が「取引不成立」だったことに気付きます。そういう世の中のしくみに気付いたその人は、ルールの存在が気になって、すべての行動が小心翼々としてしまいます。ついには「ありがとう」を言われることが、すべての行動基準になってしまうのです。ずいぶん乱暴な図式化だけれども、若い人たちを萎縮させている環境は、これに近いのではないか、とも思います。
数年前『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』という本がベストセラーになったとき、複雑な思いをしたことを思い出しました。こんなふうに、消費者のニーズにものごとを置き直して考える高校生がいたら、とても嫌だろうと。「取引成立ならばありがとうを言うルール」とは、荒唐無稽なばかりのアイデアではなく、現に生きている呪縛なのかもしれないと思うのです。
そうすると「ありがとう」と言うことを心がけている人は、そのルールの外に出て、「取引成立」という条件なしに「有り難い」と口にし得る人ではないか。社会的承認などではなく、その人はみずからを出発点として承認を与える人と言い換えることができるかもしれません。
そういえば「六波羅蜜」の「愛語施(あいごせ)」は、「ありがとう」と言うことは施しなのだという考え方でした。施しとしての「ありがとう」を受け取っていれば、その人はバトンを渡すように「ありがとう」を発するのではないでしょうか。