畳のうえに風炉を置いたお茶の点前は10月で最後になります。11月の炉開きに向けて、より侘びた道具が好まれるようになって行きます。
寒さを感じ始める客のために、これまで客から遠い位置に置かれていた「風炉」が、やや客よりに置かれる「中置」という点前が選ばれるのもこの時期の特徴です。
稽古では、「金継ぎ」の茶入れを使いました。欠けたり割れたりした道具を漆でつなぎ、そのつなぎ目を金粉などで装飾する手法を「金継ぎ」といい、侘びた風情を醸し出すのです。
私の好きな、松下幸之助の言葉のひとつに、「成功する人が備えていなければならない三つのもの」という話があります。成功する人には「愛嬌」「運が強そうなこと」そして「後ろ姿」が備わっているのだと。
このなかで、私が最も惹かれるのが「後ろ姿」です。後ろ姿とは、その人の言葉の裏にどのような想いが秘められているのか、思わず想像が膨らんでいくような、そんな雰囲気を醸し出していることを指しています。言い換えると、自分がどうにかしなければいけないと思わせて、ついついその人のために動いてしまう、そういうものが人を結果的に成功させるというのです。
見る人をああでもないこうでもないと能動的にさせてしまう力は、後ろ姿の「陰り」のようなものによって引き起こされるのでしょう。しかし、これは「陰り」に感化されてしまう相手の感性があって、はじめて成り立つ関係でもあります。
わたしは、肌寒さを感じるようになったこの時期に、わざわざ風炉を客に近づける「中置」をはじめとして、季節に応じた道具の配置というものに、マニュアル通りの「おもてなし」ではない、「陰り」への感受性が潜んでいるように感じています。相手のことを慮って、何かをしなければならないと考える、「陰り」への感受性です。
民芸運動の柳宗悦は、著書『茶道論集』(岩波文庫)のなかで、茶の本質を「渋さ」と呼び、その真髄を「貧の心」にあると述べています。茶器の「簡素な形、静な膚、くすめる色、飾りなき姿」に「貧の心」を見ました。鷲田清一は柳の言葉を、次のように敷衍させます。
この欠如、この不完全、この疵、この「貧」、つまりは意味の凹みのなかに、柳は充足以上の価値を見ようとする。そして、「足らざるに足るを感じるのが茶境なのである」という。「足るを知る」というより、「足らざるに足るを感じる」。この語り方はなかなか爽やかである。そこには、足りているときには見えないさまざまの余韻や暗示がたっぷりと含まれている。柳にいわせれば、「無限なるもの」の暗示である。
「足るを知る」というふうに じぶんをまとめる、囲うのではなく、「無限なるもの」に向かってじぶんを開くために「足らざる」場所にじぶんを置く。(鷲田清一著『大事なものは見えにくい』)
客の姿の「陰り」に、触発されてしまうように、茶器の「貧」のなかに余韻や暗示を感じとって、無限なるものに向かってじぶんを開いてゆく。
柳宗悦が「わび・さび」といった言葉を使わず、「渋さ」や「貧」と言ったのは、そこに対象を観賞しようというよそよそしさ、美の形式のために作為を加えようとする傲慢さを排除したかったからなのだと思います。
陰りへの感性が、無限へ向けてじぶんを開く運動につながるのだとすると、それは同時に自分を開く自由をみずからに課すことにもなります。陰りへと飛び込んでゆく勇気もまたそこには必要とされます。これまでお会いした、大人(たいじん)ともいうべき人に共通して感じられる、懐かしさの感覚へと、それらは通じるように思うのです。