森田真生の『偶然の散歩』(ミシマ社)に、環境哲学者ティモシ―・モートンの「世界の終わり」という言葉が紹介されていて、暫く考えさせられました。
それは、終末論的な終わりのことではなく、自分の内と外とを切り分けて、自分だけが安全に引きこもれるような「世界」があるという発想そのものの終わり、を意味するのだそうです。前掲書から引用します。
人はみな、自分ではないものたちと交わり合い、響きあう生命の網の一部である。そこにはすべてを無傷なまま見晴らせるような、清潔な安全圏はどこを探してもない。
だからこそ、不都合な他者を「正しく」制御し、自分だけ清潔であろうとするより、純粋で清潔な「世界」という妄想を手放し、不可解な他者と共存していくための知恵をこそ、模索していく必要がある。
世界の終わりのあとを生きる僕たちの生は、人間でないものたちとの共存の道へと、もっと大胆に開かれていてよい。(168-169頁)
純粋で清潔であるべく制御される世界という妄想が、地球温暖化や異常気象を生んでいるのだとすると、それは緊急に改善されるべき認識なのでしょう。しかし、それではどこから手を付けたらよいのか、にわかに答えが出そうにはありません。
私は、差し当たりモートンの著書から森田が引用した「調音」という言葉から考えたいと思います。「制御」するのではなく「調音」するための作法というものは、われわれの知恵のなかに、もともとあったのではないかと思うのです。
たとえば、茶道には弓道の構えと似たところがいくつもあります。私は高校時代弓道をやっていて、そのとき体に叩き込まれたのですが、弓に矢をつがえて胸の前に「円相」ができるような体勢で、上体を固めて息を整えるように構えます。そうすると矢の飛ぶ方向がブレないのです。
茶道でも道具を扱う時には胸の前に大木を抱くような感覚で円を描き、この基本姿勢を崩さずに道具を迎えに行き、定位置に戻しに行きます。
どちらにも共通して言えることは、こうすることで道具との一体感が格段に増すということです。円のなかで弓と矢はもはや道具というよりも、呼吸のなかで自分と一体化します。茶道においても、正しい基本姿勢をとっていると、道具が自分の延長であり、自分が道具の一部であるような、不思議な一体感が生まれます。この一体感のなかで、道具の美しさが際立つようにさえ感じるのです。
これらを、わたしは「調音のための作法」とひそかに呼んでいます。
これらが、モノや他者との「調音」に役立つとしても、むろん、ささやかな端緒のひとつに過ぎないものでしょう。しかし、その知恵が息づいていること自体は、そういう世界との接し方があったことの証明でもあり、私たちに希望を与えてくれるように思うのです。