この12月4日で、中村哲医師が銃弾に倒れて3年を迎えます。
現地PMS(平和医療団日本)は、この秋東部ナンガルハル州の谷間で灌漑事業を開始したと、新聞に載っていました。深刻な干ばつが発生するにもかかわらず、急な斜面のために中村医師も、なかなか手がつけられなかった場所だそうです。昨年タリバンが復権し、銀行取引が停止されるなどの厳しい環境のなかで、中村医師の志が着実に受け継がれ、かたちを結んでいます。
この記事を読んで、巨木が倒れた骸のうえに新しい木々が育つ姿を連想しました。「倒木更新」というこの現象は、新しい木々が、倒木のうえに一直線に整然と並んでいて、もとの巨木の姿を思い起こさせるのです。環境が厳しければ厳しいほど、困難に立ち向かおうとする不屈の姿を、新木は巨木に倣って体現しているようです。
幸田文が著書『木』(新潮文庫)のなかで、富良野の東大演習林で「倒木更新」を見たときの感慨を綴っています。前日の雨で濡れそぼった森の中で、古木の骸のうえに立つ若木も、触れれば指先が凍るように冷たかったと言います。そのとき若木から古木に伸びた根の奥に、赤褐色の部分があって、そこに手を入れてみると、不思議な温かさを感じたのだそうです。
美しい文章ですので、そのまま引用します。
古木の芯とおぼしい部分は、新しい木の根の下で、乾いて温味をもっていた。指先が濡れて冷えていたからこそ、逆に敏感に有りやなしのぬくみと、確かな古木の乾きをとらえたものだったろうか。温い手だったら知り得ないぬくみだったとおもう。古木が温度をもつのか、新樹が寒気をさえぎるのか。この古い木、これは、ただ死んじゃいないんだ。この新しい木、これもただ生きているんじゃないんだ。生死の継目、輪廻の無惨をみたって、なにもそうこだわることはない。あれもほんのいっ時のこと、そのあとこのぬくみがもたらされるのなら、ああそこをうっかり見落とさなくて、なんと仕合わせだったことか。
今年のペシャワール会会費を納入した後、お礼状が送られてきて、中村哲医師の写真が印刷されていました。広大な畑を背に、こちらに笑いかける写真で、2019年撮影なので亡くなる数か月前の姿です。この畑も中村医師が訪れるまでは砂漠だったのです。照れたように笑う顔が、この文章の古木の「ぬくみ」のように感じます。