今年は昨年引越した近くの鳥飼八幡宮に初詣に出かけました。初詣を雲ひとつない晴天で迎えるのは、久しぶりです。
昨年末に本殿遷座祭を終えたばかりの新しい社殿は、茅葺き壁に囲まれ、賽銭箱の背後の向拝に大きな石柱が、斜めに支え合うように組まれたモダンな佇まいです。
社殿の先には青い空が広がっていて、今年も家族そろって初詣のできることを、まずは神前に感謝しました。
参拝の列に並んで青空を見上げていると、小さいころ仰向けになって世界を眺めていたときに戻ったような気分です。
だいぶ前に読んだ僧侶の門脇健の本(『哲学入門』角川SSC新書)に、こんなことが書いてありました。
赤ん坊の頃、人は仰向けに寝そべって、大人の世界に向けて笑顔を振りまいているけれども、これを覗き込む親は赤ん坊を認識の対象とするのではなく、その笑顔によって親子という関係を築くことを強いられます。こうして世界は少し動いて、赤ん坊の住むべき世界へと築き直されるのです。寝そべる顔の先には空が広がっていて、大人たちの言葉の世界と空とはひとつのものでした。
やがて、赤ん坊は仰向けの状態から起き上がり、大人たちの世界へと働きかけて、空と新たな関係を築き始めます。これは驚くべき冒険のはずですが、赤ん坊が子供になる過程で実に易々とそれをやり遂げていました。
面白いのは、ある精神科医によると、人がしばしば見る「空飛ぶ夢」とは、未知の世界へ踏み込もうとする期待と不安の表れであり、大人たちの言葉の世界へと踏み込んだときの反復だというのです。人間は新たな段階に達すると、今まで安んじていた世界から、新しく要求される言葉の世界に飛んでいけるかどうか、不安に思います。そんなときに、あんなに軽々と空を飛んだことがあるじゃないかと、夢のなかでみずからを励ますのだそうです。
ユーミンの「ひこうき雲」は「空を駆けてゆく」姿を歌うことで、プロのシンガー・ソング・ライターとして生きてゆく自分自身を、まるで励ますようではないか、と著者は述べています。
新たな世界を切り開くということは、重たい扉を開くことだと考えると、ついつい身構えてしまいます。そうではなく、空を駆け抜けることだと考えると、新たな世界を迎えることが、気負わずにできるように思います。
目の前には、205年ぶりという遷宮によって誕生した、おそらく全国的にも類をみない茅葺き壁の社殿が姿を現しています。私も新たな世界を切り開くことの軽やかさを、空を駆けるように感じたいと思いました。
当ブログを読んでくださる皆様にとって、本年が新しい世界の切り開ける年でありますように、心よりお祈りします。