明日は初釜茶会、我が社中としてはじつに3年ぶりの開催です。
「各服点」といって客ごとに茶碗を替えて濃茶の回し飲みを避けたり、懐石料理のいただき方も接触を避ける方法をとったりと、感染予防を施した準備をしていただいています。
私は正客の大役を仰せつかったので、明日に向けての準備をしなければなりません。正客がタイミングをはずすと、亭主の点前が進まないことがあるので、責任重大です。
床の間の掛軸は「紅炉一点雪」が用意されているはずで、どのように話を向けようかといろいろと思いを巡らせます。
ちなみにこの掛軸は数年前の初釜でも拝見したもので、その時のことを当ブログにも書いたことがあります。
「紅炉一点雪」とは、真っ赤に燃えた炉の上に、一片の雪が舞い落ちては、一瞬のうちに溶けてしまう、その潔い様子を表した言葉です。
出典の『碧眼録』には次のように記されています。
荊棘林透衲僧家 紅炉上如一点雪
(荊棘林を透る衲僧家、紅炉上一点の雪の如し)
大意は次の通りです。
修行僧が、荊棘林(イバラ)の林を通っても、紅炉上の一点の雪のようにいっさい痕跡を残さない。
イバラの道を通って、傷だらけになって出てくるというのは、修行が足りない。修行にあっては、紅炉上の雪のように身を焼き尽くし、次の瞬間には痕跡すら残していない、それが修行の到達点だ。
ここで雪というのは煩悩、雑念のようなもののことを指すのでしょう。放っておけば降り積むような雪も、紅炉の上ではたちまちのうちに消えてしまいます。イバラの林を抜けても修行僧が傷ひとつ残さないのは、雑念を瞬時に消してしまう様子を表しているというのです。
こういう境地をありありと思い描くのは難しいですが、逆のことならば我々凡夫の日常茶飯事です。
小さなことや昔のことをクヨクヨ考えて、ひとりで不機嫌になっては、周りも不愉快にしてしまう。自分はこんなに苦労しているのだと言い立てて、それが自分の勲章のような思い違いをしている。我ながら思い返して、恥ずかしい姿です。
それでも年の功というのか、降る雪を瞬時に消してしまうことはできなくても、積もるにまかせて根雪のようになってしまうことを避ける術は、身につけているつもりです。小さなことをクヨクヨ考えるときは、間違いなく体調の悪いしるしだと心得ているので、仕事を切り上げて早めに休むようにしていますし、苦労自慢をしないように心がけるのが、凡夫の知恵だと考えています。
とはいえ、雑念が瞬時に消えてしまう「紅炉一点雪」の境地には、程遠いことに違いはありません。
ずいぶん話がそれてしまいましたが、明日の初釜のことです。
ご亭主が一生懸命、稽古をされて、それが衒うことなく清々しい茶席に現れているのならば、まずそのことをお話ししようと思います。初釜の雰囲気を、ひたすら堪能させていただきましたと。