志村ふくみの自選随筆集『野の果て』(岩波書店)を読みました。
彼女の随筆はほとんど読んでいたつもりでしたが、未読のものも幾つか収録されていて、読み進むうち、息を呑んで何度も立ち止まり、読み戻りながら、いつくしむように文字を追いました。特に「日本の色-古今・新古今・源氏物語の色」(初出『白夜に紡ぐ』人文書院)で『源氏物語』について論じたくだりは圧巻でした。万葉の世界に見られるおおらかな色が、貴族文化の爛熟に伴って変容し、『源氏物語』に至って精神性へと結実する様が見事に描かれています。
志村は「なまめかし」という表現のなかに、自身の染織の体験を重ねています。藍を染めるとき、藍甕から引き上げた糸が、はじめ眩いばかりのエメラルドグリーンを発色し、それが瞬時に消えて、その後を追うように縹(はなだ)色が浮かんでくるのです。
藍染の中で最も盛んな色、それは初染の縹色である。幼くも、老いてもいない、まさに青春そのものの色、縹だ。力が漲っている。艶である。清々しい。その時思わずなまめいてみえた。色がなまめくとは!ふしぎなことだが目の前の青が生気を発してなまめきたつのである。私はこの体験をするまでなまめくとは艶なること、色っぽいことと単純に考えていた。しかし『源氏物語』にあらわれる「なまめかし」ということは到底一筋縄ではなく、実に複雑多様である。さまざまな色の対比とか融合、その時々の人物の心理や容姿すべてを彩なしてなまめくのである。(170-171頁)
こうやって色の対比・融合のひとつの相として現れた「なまめかし」は、同時に色を削り取った無彩色の世界、鈍色(にびいろ)の世界へと断絶することなく繋がって行きます。源氏物語の美の象徴がこの「なまめかし」の鈍色への転換にあると、志村は指摘します。
「鈍色」この微妙な衰退の表現、華やかな色から華やかさを抜きとってそこにひっそり匂っている色。あの華やかな宮廷生活があればこそ、悲愁の装いが、とくに光源氏をはじめ男性貴族の中にきわ立つのである。紫をして、滅紫(めっし)と誰が名づけたのか、紫を染めていて、温度が六十度以上になると紫はほろびて鈍色になる。 どこかに紫の余韻をのこした灰色、墨色である。文学上の造語ではない。歴とした染色上の色なのである。 紫式部の底知れない才能は色彩の上にも厳然と実証されている。王朝の華麗な色彩の物語である源氏は、終わりにあってあらゆる色を否定した白と黒、清浄と死の無彩色の世界にゆきつき、色として完成させたような気がする。(171頁)
この転換こそが「もののあわれ」であり、日本の文化の基底に流れる「うっすらとおおわれる霧のような心情」なのだと志村ふくみは語ります。そして中世の幽玄の世界の端緒も、ここに現れているのです。
おそらく志村ふくみの染織の仕事がなければ、そしてそこに繰り広げられる驚きと畏れの経験を、読書を通じて間接的にでも知ることがなければ、色の豊かな変容も、それが深い精神性へと至ることも、理解することはできなかっただろうと思います。
志村ふくみを未読の方はもちろん、長く愛読されている方も、新たな発見をもたらしてくれる一冊です。ぜひご一読をお勧めします。