河合隼雄の兄、霊長類学者の河合雅雄が少年時代を過ごした丹波篠山を舞台に描いた『少年動物誌』(福音館書店)に、「蛇わたり」という印象深い一節があります。
兄弟で大事に飼っていたジュウシマツやシマリスを蛇に相次いで襲われ、腹いせに蛇を捕まえては懲らしめていた雅雄少年が、あるきっかけで蛇の主の復讐におびえるようになります。そんなときに少年たちが池のほとりで目撃したのが、次のような光景でした。夢見るように幻想的な描写ですので、少し長くなりますが引用します。
アヤメの花がゆっくり動き、煙ったようにかすんでいる細かく濃密な雨の中で、鮮かな紫が揺れる。かすかな音がして、真黒なカラスヘビが、相ついで、アヤメのしげみから滑りだしてきた。体をくねらすたびに波の輪が生れ、おたがいに干渉しあって複雑な陰翳を池の面に刻んだ。かれらがハイビャクシンの下に到着し、まだ泳いだあとの波だちが消えないうちに、またもや一匹、こんどはすこし大きなカラスヘビが現れた。こいつは鎌首を上にもたげ、いかにも誇らしげに周囲を見まわしながら、スピードをあげて泳ぎきり、ビャクシンの横の紫蘭の葉陰に入って、すこし一服した。
驚いたことには、三十匹あまりのカラスヘビが、こうしてつぎつぎにアヤメの陰から現れ、池を横切っていったのである。小さいのは二十センチくらい、大きなのは五十センチをこえ、二、三匹ならんだり、すこし間をおいて一匹で現れたりした。 霧雨で靄が降りたようにかすんだ水面を、黒い影がうねり、赤い斑紋が花火のように閃いて、妖しい幻想的な雰囲気がかもしだされた。
ぼくと道男はまるで夢を見ているような気持になり、茫然とこのふしぎな光景に見入っていた。
ぼくは急にえたいのしれない不安に襲われた。水面に消えては現れる無数の小さな輪の中に、影のような蛇の姿が走り、その中に白銀の矢が幻のように浮んだ。(中略)気がつくと、うしろにオキヤンと速男が立っていた。二人ともものもいわず、呪文をかけられたように硬直し、異様な光景に見入っていたのだった。(158-159頁)
最後の方で呪文をかけられたように立ちすくんでいた「速男」が主人公雅雄の弟、河合隼雄少年です。
前回、河合隼雄の「たましい」について書いて、ずっと前に読んだこの本の、不気味とも美しいとも言える、このくだりを思い出しました。河合隼雄がたましいに出会うと言うとき、畏れつつ窓を開けるひとの敬虔さがあります。水面を渡ってゆくたくさんの蛇たちは、隼雄少年にとって「たましい」の原型となるものではなかったかと、ふと思いました。
ひたすらに池を渡る蛇の一群は、こちらの思惑に染まることなく、みずからの内なる摂理にのみ突き動かされています。蛇たちは、その前で立ち尽くさざるを得ないような圧倒的な存在で、蛇たちが渡る「池」は、少年にとって自分のこころを映すものだったのではないでしょうか。
河合隼雄は別のところで、蛇は神話のなかで世界共通に「再生」のシンボルとして登場すると述べています。惰性に陥った生を賦活するのが「たましい」との接触ならば、河合兄弟の蛇わたりの話は、実は「再生」につながる体験なのかもしれないと思いました。