犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

洛陽の牡丹大輪を開く

2024-01-11 23:28:17 | 日記

近くの神社脇の花庭園では、冬牡丹が絹のような花びらを幾重にも広げていました。
一株ごとに藁帽子で大事に守られた牡丹の姿は「百花の王」というよりも、手塩にかけた箱入り娘と言ったほうが相応しいかもしれません。

しかし、まだ凍りつくような大地の下には、生命のドラマが繰り広げられています。
一本一本数え上げれば気の遠くなるような長さの根が生え、それぞれの根からはおびただしい根毛が伸びていて、水や養分を休みなく吸いあげているのです。五木寛之が『大河の一滴』に書いていますが、生物学者が小さな木箱にライ麦の苗を植えて、その根や根毛の長さを測って累計したところ、実に1万1千2百キロに及んだそうです。シベリア鉄道の1.5倍にも達するその根の力が、貧弱なライ麦の一本の生命を支えています。

一口吸尽西江水(一口に吸尽す 西江の水)

中国の禅僧が、禅師に「万法を超越した人とはどんな人ですか」と尋ねたところ、禅師は「お前が西江の水を一口に飲み尽くすことができたら、それを教えてやろう」と答えたのだそうです。これだけでは何を意味しているのか分かりませんが、この後には次の句が続きます。

洛陽牡丹新吐蘂(洛陽の牡丹 新たにズイを吐く)※ズイとは、雄蘂と雌蘂の意

大地が地下に水を蓄え、その地下水を牡丹が吸い上げて、大輪の花を咲かせる、と続くのです。
根の丈を伸ばし続け、根の先に根毛を絶えず押し広げて、そこから大地の水を吸い上げる、そして牡丹の花の大輪となって生命の形をまさに表している。奢ることもなく息づいている命の力に、まずは驚くべきだろう。万法を超越するなどと大言壮語するのではない、愚直ながら壮大な営みに注目せよ、と禅師は語ったのではないでしょうか。

この禅語は、千利休が参禅の師と仰いだ大徳寺の古渓宗珍 により示されたもので、これにより利休は大悟したとされています。
『南方録』で利休の境地を示したとされる藤原家隆の歌

花をのみ まつらん人にやまざとの ゆきまの草の 春をみせばや

は「雪間の草」の命の力に焦点を当てています。その命の力に同期するように、人の心にも春はめぐって来るのだと詠うのです。
生きて、生きて、ひたすらに生きてやまない命の力を思いながら、この一年の茶道の稽古に励もうと思います。


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