犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

柔らかく震える花

2024-04-14 17:53:08 | 日記

先週催された利休忌茶会で、薄茶席の点前を務めました。
前回「無事につとめた」と書きましたが、次客用の茶碗を点前座に取り込むときに、茶筅を倒してしまったりなど、失敗はたくさんしています。
これ見よがしのきれいな点前は目指すまいと心がけてはいたものの、技術的にはそれ以前の問題のようです。

さて、おもてなしの心を、ひとが喜ぶのをみて自らも喜ぶことに留まるのではなく、そういう自分を突き放して見る、もうひとつの視点を得ることではないかと、このブログのなかで述べたことがありました。見返りを求めぬホスピタリティの精神だけではない、もっと俯瞰して、もてなそうとする自分を省みることが必要なのではないかと。
それでは、どうやってその「一歩引いた視点」を取り入れることができるのでしょう。

たとえば、桜の花は毎年同じように咲いて私たちを楽しませてくれますが、けっして「同じかたちに」咲くことはしません。枝ぶりも蕾の位置も、花びらの重なり方も全く異なるにも関わらず、昨年と同じような感動をもたらしてくれます。昨年と「同じかたち」を目指すのならば造花と同じでしょう。「これ見よがしのきれいな点前」は造花のようなものだと思います。
去年もおととしも、その前の年も花を咲かせたことを桜の木が覚えていて、そのうえで、今年ならではの花を咲かせようとすること、それが「一歩引いた視点」につながるのではないかと考えました。

そう考えたのも、茨木のり子さんの詩のなかで最も好きな『汲む』というものを思い浮かべたからです。
何度も引用して恐縮ですが、抜粋したものを紹介します。

汲む―Y・Yに―(茨木のり子『鎮魂歌』より)

********
そのひとは私の背のびを見すかしたように
なにげない話に言いました
初々しさが大切なの
人に対しても世の中に対しても
人を人とも思わなくなったとき
堕落が始まるのね 堕ちてゆくのを
隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました
********
年老いても咲きたての薔薇 柔らかく
外にむかってひらかれるのこそ難しい
あらゆる仕事
すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている きっと……
わたくしもかつてのあの人と同じぐらいの年になりました
たちかえり

今もときどきその意味を
ひっそり汲むことがあるのです

初々しさがなくなるとき、人を人とも思わなくなるとき、それは物事をルーティンで片付けようとするようになったとき、と言い換えることができると思います。どんなにホスピタリティに基づいた行動でも、ルーティンになり得ます。

「柔らかく/外にむかってひらかれるのこそ難しい」咲きたての薔薇は、いつも厳しい自戒のもとに開くのではないか。すべてのいい仕事の核であるという「震える弱いアンテナ」は、堕ちてゆくのを隠せなくなった人を何人も見たからこそ、自戒の末に得られるものではないだろうか。先に述べた「一歩引いた視点」は、この自戒に近いのではないか。
みずからの拙い点前を振り返って、そんなことを考えました。


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