天下晴れて「高齢者」の仲間入りをすると、介護保険関係の書類がたくさん届くようになりました。
まだしばらく働いて社会保険料を支払い続けるつもりなので、諸々の手続きは自動的に繰り下げられるのかと思っていましたが、案外と面倒なことに驚きます。
現役世代に支えられる年齢層に達したことは事実なので、それは虚心に受け入れるつもりなのですが、「高齢者」という事務的な括りでもって、私という人間の、その他の属性を否定されるような気持ちにもなります。
たとえば、自分が「夫」であり「父親」であり、いやそれ以前に、両親の「こども」だったことも、何もかも無かったことにして、「こちら側の人」と括られるようにも感じます。
私の両親はだいぶ前に亡くなったので、「こども」であったことは、ほとんど忘れていましたが、高齢者という括りのせいで、久しぶりに思い出しました。
石垣りんの「かなしみ」という詩があります。
私は六十五歳です。
このあいだ転んで
右の手首を骨折しました。
なおっても元のようにはならないと
病院で言われ
腕をさすって泣きました。
『お父さん お母さん ごめんなさい』
二人ともとっくに死んでいませんが
二人にもらった体です。
いまも私はこどもです。
おばあさんではありません。
この詩を読んで、「おじいさんではない」と、生涯言い続けようかとも思い、少しは気持ちが晴れました。
昨日のお茶の稽古で、師匠から「お茶名」の申請をするので、申請書に必要事項を記入して、提出するように言っていただきました。ひたすら申し訳ないような、恥ずかしいような気分ですが、これもひとつの区切りだと有り難くお受けしました。
私は「こども」であり、「夫」でも「父親」でもあり、「弟子」でもあって、今また新しい名前まで頂こうとしています。
おじいさんではありません。