茶道の教室で「釣釜」の稽古をしました。3月に入り、寒さも緩むこの時期に、釜を天井から吊り下げて、その吊り下げた釜の湯でお茶を点てるのです。
茶釜が天井から鎖で吊るされている様子は、近くで見ると壮観で、茶道を始めたころ、このしつらえを見て驚いたものでした。この時期は、残念ながら仕事の最繁忙期でもあり、釣釜の練習に時間を割くこともできずにいたのですが、今年はなんとか時間が空いて、久しぶりに釣釜の稽古ができました。
長い鎖で吊るされた釜は、釜の蓋の開け閉めをするとき、そして柄杓を釜に預けるときに、ゆらゆらと揺れます。それが春の陽炎のような風情を醸し出してもいるのですが、点前の邪魔に感じることがあります。
大きく揺れるときには、ついつい釜の蓋を押さえつけるように開け閉めをして、揺れを止めようとします。しかし、そうやって相手を意のままにさせようとすると、気持ちが雑になって、雑な気持ちが点前に表れてしまいます。
釜の揺れをゆっくりと吸収するように、釜の動きに逆らわずに柄杓を扱い、お茶を点てると、釜の動きも静まってこちらの気持ちも落ち着きます。
いつも動かぬ道具を相手にする所作に、道具の動きが加わることで、点前をする側にも変化が生じることがわかります。
点前は道具と人との交流です。動かない道具に働きかけることを「独り言」とすれば、動く道具を扱うことは「対話」に近いのではと考えました。「独り言」は自分にとってはフラットで無害であっても、何ももたらしません。一方、意のままにならない「対話」は、こちらの在り方を揺らして変えてゆく潜在性を持っています。
こう考えてくると、動かない道具を扱うときにも、客という「揺れ」に接していることに思い至ります。そして、客の言葉や所作といった揺れを吸収し、いつのまにか同期しているからこそ、点前のたびに新たな発見があるのだと気付きます。客の言葉という「揺れ」のなかに、雪解けの水や春風を感じることさえあるのです。
揺れる釜、釜から柔らかに立ち登る湯気、その湯気越しに亭主と客とが対面する空間は、まさに揺らぎに満ちています。炉の季節が終わりに向かうこの時期の、優れた舞台のしつらえであり、空間演出なのだと思います。