犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

星をみるひと

2024-02-01 18:15:25 | 日記

南の夜空を見上げると「冬の大三角」と呼ばれる、明るい恒星の三角形が浮かんでいます。正月26日の満月の際には、この満月の右となりに冬の大三角が並んでいて、まるで夜空に繰り広げられる祝祭のようでした。
三角形がきれいな形を保ったまま、天頂にのぼっていくのを見ていると、宇宙の大きな回転の真っただ中にいることを実感します。地球上に1日1万トンもの宇宙塵が降り注いでいるというのですから、銀河の大渦巻きが、いま目の前にある世界をも巻き込んで、昼も夜も音を立てて回転している様子さえ思い浮かびます。

宮沢賢治が十代半ばで詠んだ歌に、次の一首があります。

ひるもなほ 星みるひとの眼にも似る さびしきつかれ 早春のたび

この歌が詠まれた前年の1910年には「1月の大彗星」が観測されていて、この星は「真昼の彗星」とも呼ばれ、白昼でも見ることができたのだそうです。この歌に詠まれた星はこの大彗星だったのでしょうか。下の句の「さびしきつかれ早春のたび」から読み返すと、一年前に確かに現れた彗星を真昼の空に探すように、見果てぬ夢を追う姿を描いているようにも見えます。
この時期、賢治は盛岡中学に通うものの、家業を嫌い将来を悲観して、鉱物採集や星座に夢中になっていました。賢治の「さびしさ」は、どこにも身の置き場のない焦りと、ない交ぜになっていたのだと思います。

わたしは賢治のこの歌を、おおむねそのように読んでいたのですが、このような感傷的なものではない、のちの作品に結実する賢治の壮大な宇宙観の萌芽ではないか、そう思うようになりました。
「銀河鉄道の夜」のなかで、ジョバンニはいつのまにか銀河をめぐる鉄道の車内にいることに気付きます。銀河は手の届かない遠い彼方に浮遊しているのではなく、まさにわれわれがその只中にいることに気付くのです。いつものように生活していても、銀河の星々の大渦巻きの只中にいるのだと感じるひと、それを「ひるもなお星みるひと」と想像してみることもできます。

それは、より巨視的な見方で世の中をとらえるというより、まったく別の世界から、この世界をとらえ直すことに近いのではないでしょうか。今生きている世界のどの部分にも微細に入り込み、それ自体が大きな運動の中にありながら、今生きている世界の道具立てでは決して記述できないもの、それこそが「星みるひと」の世界です。
賢治が銀河鉄道のなかで「幻想第四次世界」と呼んだこの世界は、すでに死んでいるはずのカムパネルラの世界でもありました。


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