犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

もてなしの心と「大心」について

2024-02-08 18:43:02 | 日記

わが社中が薄茶席を担当する、春のお茶会まであと2カ月余りとなりました。
茶席のメインゲストをお迎えする席での点前を仰せつかっているので、そろそろ気合を入れて準備しなければと思っています。

茶席で客を迎えるにあたっての「おもてなし」と、客に「おもねること」の違いについて当ブログで触れたことがあったのですが、そこでは、十分に考えをまとめ切れてはいませんでした。何かの見返りを求めることが「おもねること」ならば、見返りを求めない純粋なホスピタリティの精神が「おもてなし」なのか。しかし、そんな単純なことではないと思います。

道元禅師の『典座教訓』という書物の中に、修行僧が食事を作る際の心構えとして大切なものとして、「喜心、老心、大心」の三心を挙げています。玄侑宗久さんは、これを次のように語っています。

道元禅師は、人は三つの心を持たなければいけないというふうにおっしゃるんです。ひとつめが「喜心」、喜ぶ心。
二つめが「老心」、親が子どもを慈悲深く見つめるように見る心。
三つめが「大心」、大きな心というのは、おもしろいんですけど、「春声にひかれて春沢に遊ばず、秋色を見るといえども更に秋心なし」という表現があります。昼の、たとえば鳥の鳴き声とかを聞いて心躍る気持ちがあっても、だからといって春の沢まで出ていってはしゃぎ回ったりはしない。秋の景色に寂しさを感じても、心の中まで寂しくなったりはしない。(『中途半端もありがたい』東京書籍 42頁)

相手のことを思って「熱に浮かれたように」人に尽くすことも、われわれにはできてしまいます。それが「喜心」の極端な姿でしょう。ホスピタリティを心がけながら、疲弊しきっている人は山のようにいます。「老心」の過ぎた姿がこれだと思います。かりに、見返りを求めてはいなくとも、これらは「おもねること」と言えるのではないでしょうか。

まずは人を喜ばせ自らも喜ぶこと、人を慈しむことから始めるけれども、決してそこには耽溺しない。喜ばせたい自分、人を慈しむ自分をも、どこかで突き放してみることができなければ、自分も相手も参ってしまう。そういうことをしっかり心に留める智慧を「大心」というのではないか、と考えました。
もてなす相手に限りなく近づきながら、そうしている自分からは遠く離れていること。「おもてなし」の心をそんな風にも思います。


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