玄侑宗久さんがその著書のなかで、かつてお寺の手伝いをしていたアメリカ人修行僧について語っています。
お墓の花や花竹を燃やす巧さ、思い立つと日本まで来てしまう行動力、道場での忍耐力に驚き、そして何よりその場を明るく和ませるユーモアに惹きつけられたのだそうです。
火の作り方は、かつてボーイスカウトで訓練を受けたのだと聞いた玄侑さんは、その他の能力もそこで培われたのかどうか不明だが、と述べたうえでユーモアについて次のように語っています。
ユーモアとは、恐らく自分を客観視できなければ発信できない。またどんなに惨めな自分でも愛そうという覚悟の上に生まれるのではないだろうか? 言葉を換えれば、客観視した自分がどんな姿でも、その場から何かの喜びを得ようという覚悟かもしれない。
少し難しい言い方になってしまった。簡単に言うと、今何か努力するのは、そのことが役に立つ未来のためではなく、たった今その場で喜びを得るためなのである。難しい顔で「がんばる」人は結果を未来に見ようとして今という時間を無駄にし、その周りにいる人も和ませることはない。しかし、今の行いが今喜びを得てチャラになるなら、そんな人が発する空気はユーモラスになる。(『サンショウウオの明るい禅』文春文庫 138頁)
ここで玄侑さんが述べるのは、人生に対するエピキュリアン的な態度ではなく、事に臨んで常に発動される「覚悟」のようなものです。もう少し踏み込んで考えるために、フロイトのユーモアについて語るところをたどってみます。
フロイトは、ユーモアとは超自我が苦境におかれた無力な自我に「そんなことは何でもないよ」と励ますものだと述べています。このとき超自我とは、親や社会から抑圧的にすり込まれた他律的な社会規範のようなものではありません。
たとえば攻撃性を抑制するように親が子を厳しく躾けることが、かえって暴力的な人間を育てることがあります。逆に寛大な親に育てられた子が、強い倫理観を持つこともあります。この違いは、自己抑制できないことは恥ずかしいことなのだと親が身をもって教えていたか、にかかっています。フロイトはこうやって培われる自律的な規範の側面を「超自我」と呼びました。
超自我は強靭さを増すことで、どんなに惨めな状況に陥ったときでも、今の苦境にとらわれずに視点を変える柔軟性を持つことができます。それが超自我のユーモアの働きです。
文明の抑圧に対して、自然に帰れ、生命に帰れと反発する風潮は、やがてワイマール体制を否定し、ナチズムの台頭を促しました。そのような時代背景の中で、フロイトは人間のこころの抑制的な側面に、否定し去ることのできない積極的な意味合いを見出したと言えます。
玄侑さんのいう難しい顔で「がんばる人」は、やみくもに厳しい躾と同じで、自然に帰れという反発にあっけなく押しつぶされます。ユーモアによって柔軟に視点を変えることのできる人は、未来の結果のみを頼りにするのではなく、自らの規範を曲げずに、今を楽しむことができます。
アウシュヴィッツで多くの精神的な破綻と死を目撃し、奇跡の生還を果たした精神科医のV.E.フランクルも、アウシュヴィッツで生き残るために、ユーモアを忘れないこと、そして現実を突き放して見ることを心掛けていたと語っています。
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