ちょっと、遅くなりましたが、平成が終わって令和になりました。
昭和から、平成に変わった時の事がついこの間のような感じです。
当時小渕幹事長が平成の額入りの書を掲げて(画像をクリック)いましたが、初めに額を上げた時に反対に出した記憶があります。
ユーチューブにあるかなあと思いましたら、ないです。記憶違いかなあ。
そして令和の発表です。(画像クリック)
平成と令和の時の違いは、平成は昭和天皇が崩御されて、平成になったのでお祝いムードはなく、
というか自粛ムードでした。
年末からお亡くなりになるまで、毎日TVで今日の陛下の下血量は〇〇CCです。
とか体調報告を連日放送してました。
お笑い番組は自粛され、クラッシック音楽とか、ニュース番組などが放送され、
コマーシャルも自粛されて、公共関係のCMばかりでした。
その時の正月は豊川稲荷の参拝客も少なかったです。
あまりにも、自粛モードが多かったので、宮内庁?から自粛モードに過度のならないようにとの、
お達しがありました。
その時は、レンタルビデオが大繁盛したようなことを、ニュースで言ってました。
今回は、生前退位されたので、祝福ムードで日本がお祭り騒ぎでした。
そう思うと、生前退位の方がいいなと思いました。
政治面でのことは、良く分からないけど、経済面ではかなりの経済効果がありました。
今月、母の一周忌があるのですが、おふくろのタンスにしまってあった、当時の写真を見せてくれました。
私は、2歳くらいでしょうかね。昭和30年頃だと思う。よく見ると、私のトンカツが一番小さいように見える。(^^;)
こんな写真も親父が趣味で写真をやっていたので、残っていたのでしょう。 ご飯を入れるおひつ、キッコーマンの一升瓶、
ちゃぶ台、ふすまの修理跡、いかにも昭和でしょ。
昔は、行商の魚屋さんがいて、町内界隈を廻りながら、魚を販売していたんです。この対象は親父の同級生でした。
そして、その息子さんは私の同級生でした。戸〇春夫君だったかなあ。懐かしい。
お袋です。昭和2年生まれで、私が3歳ころだとすると、28歳かあ。なかなか美人でしたよ。
4歳違いの兄と私です。そんな兄も、もう70歳。
魚の行商の大将の事を私はとても好きだった記憶があります。
いなり公園の横に50坪程度の畑を借りていて、毎年さつまいもとか、麦を作っていました。その麦を
農協?へ持って行くとパンと交換してくれたと、記憶しています。アハハ!鼻たれ小僧だ。(@_@)
昔は夏になると「かや」なるものを天井から吊って蚊よけに使っていました。
どの家にも、あったのではないでしょうか。かやの中に入ると、別の世界に入ったようで、
気持ちがウキウキしました。かや独特の匂いと、微妙な封鎖感が、良かった。
私、おっぱい飲んでるのかなあ。ってことは昭和29年の夏だなあ。
ちょっとやらせっぽい写真だけど、当時の時代を圧縮したような写真です。
当時は、翌日の着替えをお袋が枕元に置いていてくれてんだね。
私は、幼稚園の雑誌を見ながら寝て、姉はセルロイドのお人形と遊びなら寝て、兄は飛行機を飛ばすことを夢見てと。
もう、こんな竹ひごで作る飛行機ってないでしょね。動力がゴムでクルクル回して飛ばして遊んでました。
お袋は割烹着を着て、やっとねかせた、子供達の傍らで自分の時間を楽しんでいるようだ。
振り返ると、人生って長いようでやっぱり短いね。後何年アーチェリーが出来るんだろう(^◇^)
今は、子供達、孫達が、楽しい人生を送れるように祈るばかりです。と言いながら、
弓が当たりますようにと 真っ先に、お祈りしてしまう自分であった。(@_@)
さてと、寝ましょ。
昭和から、平成に変わった時の事がついこの間のような感じです。
当時小渕幹事長が平成の額入りの書を掲げて(画像をクリック)いましたが、初めに額を上げた時に反対に出した記憶があります。
ユーチューブにあるかなあと思いましたら、ないです。記憶違いかなあ。
そして令和の発表です。(画像クリック)
平成と令和の時の違いは、平成は昭和天皇が崩御されて、平成になったのでお祝いムードはなく、
というか自粛ムードでした。
年末からお亡くなりになるまで、毎日TVで今日の陛下の下血量は〇〇CCです。
とか体調報告を連日放送してました。
お笑い番組は自粛され、クラッシック音楽とか、ニュース番組などが放送され、
コマーシャルも自粛されて、公共関係のCMばかりでした。
その時の正月は豊川稲荷の参拝客も少なかったです。
あまりにも、自粛モードが多かったので、宮内庁?から自粛モードに過度のならないようにとの、
お達しがありました。
その時は、レンタルビデオが大繁盛したようなことを、ニュースで言ってました。
今回は、生前退位されたので、祝福ムードで日本がお祭り騒ぎでした。
そう思うと、生前退位の方がいいなと思いました。
政治面でのことは、良く分からないけど、経済面ではかなりの経済効果がありました。
今月、母の一周忌があるのですが、おふくろのタンスにしまってあった、当時の写真を見せてくれました。
私は、2歳くらいでしょうかね。昭和30年頃だと思う。よく見ると、私のトンカツが一番小さいように見える。(^^;)
こんな写真も親父が趣味で写真をやっていたので、残っていたのでしょう。 ご飯を入れるおひつ、キッコーマンの一升瓶、
ちゃぶ台、ふすまの修理跡、いかにも昭和でしょ。
昔は、行商の魚屋さんがいて、町内界隈を廻りながら、魚を販売していたんです。この対象は親父の同級生でした。
そして、その息子さんは私の同級生でした。戸〇春夫君だったかなあ。懐かしい。
お袋です。昭和2年生まれで、私が3歳ころだとすると、28歳かあ。なかなか美人でしたよ。
4歳違いの兄と私です。そんな兄も、もう70歳。
魚の行商の大将の事を私はとても好きだった記憶があります。
いなり公園の横に50坪程度の畑を借りていて、毎年さつまいもとか、麦を作っていました。その麦を
農協?へ持って行くとパンと交換してくれたと、記憶しています。アハハ!鼻たれ小僧だ。(@_@)
昔は夏になると「かや」なるものを天井から吊って蚊よけに使っていました。
どの家にも、あったのではないでしょうか。かやの中に入ると、別の世界に入ったようで、
気持ちがウキウキしました。かや独特の匂いと、微妙な封鎖感が、良かった。
私、おっぱい飲んでるのかなあ。ってことは昭和29年の夏だなあ。
ちょっとやらせっぽい写真だけど、当時の時代を圧縮したような写真です。
当時は、翌日の着替えをお袋が枕元に置いていてくれてんだね。
私は、幼稚園の雑誌を見ながら寝て、姉はセルロイドのお人形と遊びなら寝て、兄は飛行機を飛ばすことを夢見てと。
もう、こんな竹ひごで作る飛行機ってないでしょね。動力がゴムでクルクル回して飛ばして遊んでました。
お袋は割烹着を着て、やっとねかせた、子供達の傍らで自分の時間を楽しんでいるようだ。
振り返ると、人生って長いようでやっぱり短いね。後何年アーチェリーが出来るんだろう(^◇^)
今は、子供達、孫達が、楽しい人生を送れるように祈るばかりです。と言いながら、
弓が当たりますようにと 真っ先に、お祈りしてしまう自分であった。(@_@)
さてと、寝ましょ。