表題の「それがどうした!?」と云われそうな日記である。
母が残した、リンドバーク氏の1931年当時の「新聞記事」と、濃霧の中をリンドバーク氏の飛行支援を行った「落石無線局」を、偶然に訪れ史実がつながった!と云う日記である。
先ずは、今日の絵日記の絵(写真)から説明する。
1931年(昭和6年)8月3日の「大阪毎日新聞」の、リンドバーク氏(夫妻)に関する記事である。
しかし「北海道・根室に着水(水上飛行機)した」との記述はない。
次の写真は、今も残る、二代目の「落石無線局」の局舎である。
建設当初は、灯台近くであった様である。
その後、この地に移設された様で、現存する「局舎」は二代目と云う事になる。
現在は、根室市出身の芸術家が所有しているとのことである。
写真・右は「落石無線通信所」が存在していたことを示す表示柱である。
落石無線局は、1908年(明治41年)に北米航路の要衝として船舶通信(電信)を担うと伴に、千島・サハリン、カムチャッカとの国内通信(電報)の業務を行っていた様である。
発足当時は、国(逓信省)の直轄であったが、1949年(昭和24年)に、電電公社に業務移管された。
1966年(昭和41年)に、業務統合(札幌中央電報局)により、廃止(廃局)となった歴史がある。
新聞記事では、行方不明である旨の記述がされている。
この記事から以降に、落石無線局の誘導で、根室湾に着水するという物語となった様である。
濃霧の中を、飛行中のリンドバーク号(水上飛行)を「無線通信の誘導によって、無事に根室港に着水した」という。
そうです! この新聞記事の、その後の出来事となる。
そして、根室市民との交流(歓迎式典等)があったとの歴史的・記述につながる。
落石無線局の本来的な業務の他、世界一周旅行(飛行)中の「ツェッペリン伯号(飛行船)」(ドイツ)の無線通信を傍受したり、第二次大戦でのソ連の千島侵攻を察知(通信傍受による)するなど歴史の証人としての存在もあった様である。
この新聞記事となる理由について、リンドバーク氏(夫妻)は、航空会社の依頼による航空路調査のため、ニューヨーク・カナダ・アラスカから中国(大陸)に向かう計画であった、らしい!
そして、先の新聞記事には「ロシアのイルクーツクに着陸した模様」と、報じてはいるが、当時の通信手段の混乱ぶりが見てとれる。
悪天候(濃霧)により”遭難”もあり得た状況下で「落石無線局」の役割は大きかったと思う。
ましてや、根室市民歓迎と云うオマケ付きである。
リンドバーク夫妻の心境は如何程であったか?・・・
今日の日記は、母が残した新聞記事(日記「こんなものがあった!(2014.10.11)」)と、北海道ツーリング(日記「北海道 7日目 別海から厚岸へ(2017.09.25)」)で訪れた「落石無線局」が歴史を介してつながったという日記である。
追記:母が残した「新聞記事」は、父が鹿児島市から大阪市までの自転車競技に参加した”記録”を残そうとしたものと思われる。
主題の「リンドバーク・・・」は、父が加した自転車競技を報じる記事の裏面にあったものを、見つけたモノである。
母が残した、リンドバーク氏の1931年当時の「新聞記事」と、濃霧の中をリンドバーク氏の飛行支援を行った「落石無線局」を、偶然に訪れ史実がつながった!と云う日記である。
先ずは、今日の絵日記の絵(写真)から説明する。
1931年(昭和6年)8月3日の「大阪毎日新聞」の、リンドバーク氏(夫妻)に関する記事である。
しかし「北海道・根室に着水(水上飛行機)した」との記述はない。
次の写真は、今も残る、二代目の「落石無線局」の局舎である。
建設当初は、灯台近くであった様である。
その後、この地に移設された様で、現存する「局舎」は二代目と云う事になる。
現在は、根室市出身の芸術家が所有しているとのことである。
写真・右は「落石無線通信所」が存在していたことを示す表示柱である。
落石無線局は、1908年(明治41年)に北米航路の要衝として船舶通信(電信)を担うと伴に、千島・サハリン、カムチャッカとの国内通信(電報)の業務を行っていた様である。
発足当時は、国(逓信省)の直轄であったが、1949年(昭和24年)に、電電公社に業務移管された。
1966年(昭和41年)に、業務統合(札幌中央電報局)により、廃止(廃局)となった歴史がある。
新聞記事では、行方不明である旨の記述がされている。
この記事から以降に、落石無線局の誘導で、根室湾に着水するという物語となった様である。
濃霧の中を、飛行中のリンドバーク号(水上飛行)を「無線通信の誘導によって、無事に根室港に着水した」という。
そうです! この新聞記事の、その後の出来事となる。
そして、根室市民との交流(歓迎式典等)があったとの歴史的・記述につながる。
落石無線局の本来的な業務の他、世界一周旅行(飛行)中の「ツェッペリン伯号(飛行船)」(ドイツ)の無線通信を傍受したり、第二次大戦でのソ連の千島侵攻を察知(通信傍受による)するなど歴史の証人としての存在もあった様である。
この新聞記事となる理由について、リンドバーク氏(夫妻)は、航空会社の依頼による航空路調査のため、ニューヨーク・カナダ・アラスカから中国(大陸)に向かう計画であった、らしい!
そして、先の新聞記事には「ロシアのイルクーツクに着陸した模様」と、報じてはいるが、当時の通信手段の混乱ぶりが見てとれる。
悪天候(濃霧)により”遭難”もあり得た状況下で「落石無線局」の役割は大きかったと思う。
ましてや、根室市民歓迎と云うオマケ付きである。
リンドバーク夫妻の心境は如何程であったか?・・・
今日の日記は、母が残した新聞記事(日記「こんなものがあった!(2014.10.11)」)と、北海道ツーリング(日記「北海道 7日目 別海から厚岸へ(2017.09.25)」)で訪れた「落石無線局」が歴史を介してつながったという日記である。
追記:母が残した「新聞記事」は、父が鹿児島市から大阪市までの自転車競技に参加した”記録”を残そうとしたものと思われる。
主題の「リンドバーク・・・」は、父が加した自転車競技を報じる記事の裏面にあったものを、見つけたモノである。