「音読」という言葉を知ったのは、高校生の時の現代国語の授業だった。
先生に、指名されて、現代国語の教科書を授業の一部として音読する。
一か所間違うと、「間違いました」と聞いていたクラスメートが指摘する。
そうすると次の者が続きを読んでいく。
この授業はとても緊張した覚えがある。
間違うまいと、必至になる。
早口でしゃべる人がいた。
「あっ、違った」と思っても、クラスからは違ったと声が出ない。
それだけ、早く進めてしまう人がいた。
そんな授業の中で、個人的に好きだった山月記の漢詩の現代語訳を読む機会があった。
好きな文章だったので気持ちを込めて、読み進んだ。
クラスのものは、静かに聞いてくれたと思う。
読み終えると、一瞬間があき、次のクラスメートが読み進めた。
通常より長く読まされた気がしたが、好きな文書だったので、それも喜びだった。
そう、音読は、好きな授業になった。
合唱をやっていて、時折歌詞を音読する機会がある。
ポエムを読むように、好きな文書を音読するように、気持ちを込めて読む。
皆の音読を聞いてみると、ただ、読み進めている人が多いのにがっかりする。
ポエムを読見上げるように読んだらいいのにと思う。
小学校や中学校、高校生の授業を担当したり、校長も務めたという小川義男氏。
彼の著作のあとがきに、
次の文章があった。
以下引用文ー
日本人が本を読まなくなったり、学習レベルが低下した原因はいくつか考えられるが、
(中略)戦後の学校教育による「音読の軽視」だと考えている。
出典:
大人になると面白い!
学校で習った古文・漢文
監修 小川義男 狭山ヶ丘高等学校校長
洋泉社