唐松林の中に小屋を建て、晴れた日には畑を耕し雨の日にはセロを弾いて暮したい、そんな郷秋<Gauche>の気ままな独り言。
郷秋<Gauche>の独り言
横浜の歴史的建造物探訪(その4)
横浜の歴史的建造物探訪、四日目にご紹介するのは、横浜指路教会(しろ)。指路教会はJR根岸線の桜木町と関内のほぼ中間、やや関内駅より辺りの線路際にあるので、後ろ姿だけはご覧になられている方も多いことだろ。指路教会は、ヘボンが建てた教会で、1892年(明治25)に献堂式が行われているが、その教会堂は関東大震災で倒壊し、現在の建物はその3年後に再建されたものである。
ところで、指路教会を建てたジェームス・カーティス・ヘボン(James Curtis Hepburn,1815年3月13日 - 1911年6月11日)を、皆さんはご存知だろうか。
ヘボンは1859年(安政6年)に来日した米国長老派教会系の医療伝道宣教師であるが、彼の名前を最も有名にしているのは「ヘボン式ローマ字」であろう。そう、あのローマ字のヘボンなのである。また、日本最初の和英辞典「和英語林集成」編纂者として、明治学院の創設者として、旧・新約聖書の和訳においても中心的な働きをなしたことでも知られている。ヘボンは、実は多くの日本人にとって、縁のある人なのである。
そのヘボンが、日本における最後の仕事として選んだのが、指路教会の建設であった。高い尖塔を持った赤レンガ造りの教会堂が完成し献堂式を終えると、彼は明治学院の初代総理の職も辞し、33年間を過ごした日本を離れ、故国にもどっているが、その間に高橋是清、林董、島崎藤村など多くの人材を育てらことでもまた知られている。
赤レンガ造りの教会堂は関東大震災で倒壊し、再建された鉄筋コンクリート造りの建物も1945年5月の横浜大空襲で内部が全焼するなどの被害を受けているが、修復されいかにも長老派の教会らしい、シンプルで堂々とした佇まいを今も見せてくれている。
日本基督教団 横浜指路教会
ところで、指路教会を建てたジェームス・カーティス・ヘボン(James Curtis Hepburn,1815年3月13日 - 1911年6月11日)を、皆さんはご存知だろうか。
ヘボンは1859年(安政6年)に来日した米国長老派教会系の医療伝道宣教師であるが、彼の名前を最も有名にしているのは「ヘボン式ローマ字」であろう。そう、あのローマ字のヘボンなのである。また、日本最初の和英辞典「和英語林集成」編纂者として、明治学院の創設者として、旧・新約聖書の和訳においても中心的な働きをなしたことでも知られている。ヘボンは、実は多くの日本人にとって、縁のある人なのである。
そのヘボンが、日本における最後の仕事として選んだのが、指路教会の建設であった。高い尖塔を持った赤レンガ造りの教会堂が完成し献堂式を終えると、彼は明治学院の初代総理の職も辞し、33年間を過ごした日本を離れ、故国にもどっているが、その間に高橋是清、林董、島崎藤村など多くの人材を育てらことでもまた知られている。
赤レンガ造りの教会堂は関東大震災で倒壊し、再建された鉄筋コンクリート造りの建物も1945年5月の横浜大空襲で内部が全焼するなどの被害を受けているが、修復されいかにも長老派の教会らしい、シンプルで堂々とした佇まいを今も見せてくれている。
日本基督教団 横浜指路教会
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