玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

昔の柏崎はすごい

2006年07月29日 | 日記
 ソフィアセンターで開かれている「柏崎の百年」は大人気で、連日多くの市民が訪れている。高齢者が昔を懐かしんでの思いはよく分かる。「誰々が写っている」とか、「こんなだったんだ」とかの会話がしきりに聞こえてくる。感想ノートには小学生の書き込みも多くあって、「昔のかしわざきはすごかったんだなあ」などと、強い印象を書き記している。どんな思いなのだろう。
 初老に足を踏み入れつつある身としては、懐かしさがあって当然なのだが、それよりむしろ、新しい発見の方が多かったように思う。柏崎を襲った数度の水害の記録などは、現場を見ていないから記憶にない。真貝新一が自宅が焼けるのもかまわず撮影した宮川大火なども、まだ六歳だったから、新聞記事の記憶もない。
 市の写真で昭和四十七年~八年の佐藤池の白鳥の姿を写したものがある。中学生時代、佐藤池の生態研究で足繁く通ったが、白鳥飛来の記憶などまるでない。真貝新一が昭和二十八年に写した団子山の市営住宅十棟の写真は、はるかな記憶を呼び覚まさせてくれた。団子山は主な遊び場だったから、この市営住宅を記憶している。しかし、この写真を見なければ二度と思い出すことはなかっただろう。
 ところで、この写真展は、柏崎市立図書館開館百周年を記念してのもので、会場入口に新旧三代の図書館の写真と説明が掲示されている。現人物館の二代目の思い出はまったくないが、初代の木造図書館に多くの思い出がある。
 高校時代毎日のように通った。時効だから言うが、学校の行事や授業までさぼって本を読みに行った。狭苦しい書架で本をあさった記憶と、全集本を借りまくって読んだ濃厚な思い出が甦る。現在の図書館はスマートだが、そんな濃い思い出を残してくれるだろうか。やはり「昔の柏崎はすごかったんだなあ」。

越後タイムス7月28日「週末点描」より)


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田辺和栄さんの個展

2006年07月29日 | 日記
 市内高柳町高尾の田辺和栄さんが、四月に産文会館で個展を開いた時に、ある来場者が「分からん。オレにはさっぱり分からん。おめさんの頭ん中はいったいどうなってるんだね」と言うのを聞いた。その人は田辺さんの知人だったらしく、だからそんなざっくばらんな感想をしゃべったのだろう。
 田辺さんは十五日から二十三日まで、今度は長岡の県立近代美術館で個展を開いている。作品の選択と会場での展示レイアウトを、お手伝いさせてもらった。
 個展としての統一感を出すべく、油絵作品のみとし、具象作品をなるべく排するという方針は自ずと決まった。「オレにはさっぱり分からん」と言われるのを覚悟の選択であった。
 こんな仕事をするのは初めてのことで、いろいろと勉強になった。壁面へのレイアウトは、ミニチュア版の写真を使った。十分の一に縮小した壁面に、十分の一の作品を置いていく。おもしろかった。会場でシミュレーションするよりも、体力も時間も必要としない。あらかじめどこにどの作品を配置するか決めることが出来たので、実際の飾り付けも短時間で済んだ。
 統一感のとれた個展が実現された。旧作もあれば新作もある。田辺さんが所属する自由美術協会で高く評価された「明けの前」(一九八四)という作品は、有無を言わさぬ説得力を持っている。三角形を主体とした鋭角的な抽象作品で、闇の中に浮かぶ赤や青の色彩が美しい。
 絵画は、そこに何が描かれているかを理解するために鑑賞するものではない。具体的なモノを離れて、そこに置かれた色彩や、そこに形づくられた構図を通して、直截に作者の発するメッセージを感得することが、抽象画を観る醍醐味である。
 抽象画を、二十世紀になって現れたごく新しいものと考える人もいるが、それは大きな誤解だ。古代の遺跡にも多く幾何学的な図形は存在するし、現代の抽象は、そんな古い人類の記憶の再現でもある。田辺さんの個展は「自然との交感の中で」をテーマとし、自然から多くのものを汲み取って、人類の意識の“古層”の表現となっていると思う。会期は二十三日まで。

越後タイムス7月21日「週末点描」より)


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