玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

「飛龍伝」への疑問

2011年01月24日 | 日記
 演劇フェスティバル初日に、劇団THE風・FOUによる「初級革命講座・飛龍伝」を観せてもらった。映画「蒲田行進曲」は観ているが、つかこうへいの演劇を観るのはこれが初めてだった。
 チラシが面白かった。いわゆる“アジビラ”を真似たもので、六○年代末の学生運動の、過激で、独善的で、教条主義的な言説のスタイルをよくなぞっていた。思わず笑ってしまった。チラシに惹かれたわけではないが、演劇フェスティバルといえば、THE風・FOUの公演を観ないわけにはいかない。
「飛龍伝」は一九七三年の初演。その前年に、連合赤軍によるあさま山荘事件が起き、その後凄惨なリンチ殺人が明るみに出た。当時学生運動を担った団塊の世代で、あの事件に衝撃を受けなかった者はいないだろう。
 しかし、つかこうへいの「飛龍伝」には、連合赤軍事件のもたらした衝撃は感じられない。ひたすら“脳天気”な元革命家の姿が描かれているだけで、沈黙によってしか表現できぬはずの“挫折”が、愚にもつかぬ饒舌によって語られるだけだ。つかの狙いは当時の学生運動に対する強烈な風刺にあったのだろうが、それだけでは演劇作品としての寿命は保証されない。
 まだ連合赤軍事件が生々しすぎたのかも知れないが、それを看過したがために、「飛龍伝」が急速に古び、四十年の歳月を経て、今日的なテーマ性を失ってしまったことは否定できない。使われている用語が観客に分かりづらいだけではない。
「飛龍伝」のラストには、どういうわけか“栄光よ再び!”みたいな熱気が込められていて、ここも理解が及ばない。赤旗を振り回すラストの演出は猪俣座長によるものというが、台詞が台本通りとすれば、「飛龍伝」はあまりにも不可解である。
 しかし、猪俣座長のつかこうへいへの思い入れは充分感じられたし、熱のこもった完成度の高い舞台だったと思う。

越後タイムス1月21日「週末点描」より)