ラドクリフの『ユドルフォの謎』も山場を越えて、収束の段階に入って行くに従って退屈になってきた。あとは謎の解明とハッピーエンドが待っているだけだと思うと興味は大きく減退してしまう。最後まで読み通せるだろうか?
というわけで、ジェイン・オースティンの『ノーサンガー・アビー』を途中で挟んで読むことにした。もちろん翻訳で。この小説はラドクリフの『ユドルフォの謎』にいかれた娘キャサリン・モーランドを主人公にしたもので、『ユドルフォの謎』のパロディと言われている小説である。
日本語の小説(翻訳されたものを含めて)を読むのは久しぶりで、翻訳というものはなんと読みやすいんだという実感に浸っている。翻訳のないものはしかたないとして、小説は翻訳で読んだ方が残り少ない人生の時間を有効に使うことが出来る。原語にこだわる必要はない。
『ユドルフォの謎』が出版されたのが1794年、ジェイン・オースティンが生まれたのが1775年だから、オースティンは19歳の時に『ユドルフォの謎』を読んだことになる。多感な少女時代に『ユドルフォの謎』に魅了されたオースティンの昂奮ぶりが手に取るように分かる。
当時、いかに『ユドルフォの謎』が熱狂的に読まれたかということが、ノーサンガー・アビー』を読むとよく理解できるのである。『ユドルフォの謎』を寝食を忘れて読みふけったであろうオースティン自身の姿が、主人公キャサリンに投影されているのだし、キャサリンの恋人のヘンリー・ティルニーは『ユドルフォの謎』を、それを読んでいる途中の妹から取り上げて、たった二日で読んでしまうのである。
しかもヘンリーは『ユドルフォの謎』に触発されて勉強したのであろう、"ピクチャレスク美学"について、無知なキャサリンに滔々と講義さえしてみせるのである。キャサリンをヘンリーに結びつけるものこそは、共通したゴシック趣味であり、当時イギリスを席巻したピクチャレスク美学なのである。
ところで本当に『ノーサンガー・アビー』は『ユドルフォの謎』のパロディなのであろうか? キャサリンはラドクリフの主人公エミリーに憧れて、ゴシック的な妄想にふけり、そのことによって喜劇的な終結を迎えるのだろうか?
つまりは『ユドルフォの謎』のような通俗的なゴシック小説にいかれていると、ろくなことにはならないという教訓をジェイン・オースティンが『ノーサンガー・アビー』に込めたのだと予想するならば、それは完全な間違いである。
キャサリンがヘンリーの父ティルニー将軍の屋敷"ノーサンガー・アビー"(かつて修道院だった屋敷のことを「アビー」abbeyと呼んだらしい)に招かれる時、彼女はティルニー将軍に対して生理的な嫌悪感を抱き、亡くなった夫人の死についてあらぬ想像を巡らしさえするのであるが、後にティルニー将軍の人格について彼女の直観が必ずしも的はずれではなかったことが明らかになるのである。
キャサリンが『ユドルフォの謎』のモントーニのような邪悪さを、正しくティルニー将軍に見て取るのだとすれば、『ユドルフォの謎』はキャサリンの妄想の源泉ではなく、キャサリンの人間理解の指針として立派に役に立っているわけで、少なくともオースティンがラドクリフの『ユドルフォの謎』を貶めるために『ノーサンガー・アビー』を書いたのでないことは明白ではないか。
しかも最後はキャサリンとヘンリーの幸せな結婚というハッピーエンドで終わるこの物語で、二人を結びつける共通の趣味がゴシック小説だとすればなおさらそうである。『ノーサンガー・アビー』は決して『ユドルフォの謎』のパロディなどではないと私は思う。
ジェイン・オースティン『ノーサンガー・アビー』(2009、ちくま文庫)中野康司訳