玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ジェイン・オースティン『ノーサンガー・アビー』(2)

2016年04月08日 | ゴシック論

『ノーサンガー・アビー』にはラドクリフ作品への批判を書き連ねた部分がある。キャサリンはティルニー将軍へのあらぬ疑いを身も世もなく反省し、ゴシック小説の世界から目を覚まして次のように考えるのである。
「ラドクリフ夫人の小説はすごく面白いし、その模倣者達の小説もとても面白いけれど、多分ああいう小説には、人間性の忠実な描写を期待してはいけないのだ。少なくとも、イングランド中央部に住む人間の忠実な描写を期待してはいけないのだ」
「アルプス山中やピレネー山中には、善と悪が入り混じった人間はいないのかもしれない。そういう山中には、天使のような汚れなき人間と、悪魔のような邪悪な人間の二種類しかいないのかもしれない。でもイギリスではそうではない。イギリス人の心と習慣は、みんな同じというわけではないが、たいてい善と悪が入り混じっているとキャサリンは思っている」
 こうした評言は、もちろん作者のジェイン・オースティンの意見によっているのであって、ラドクリフの小説に夢中になったオースティンが、後にその作品を冷静に判断できるようになったということを窺わせるものである。
『ユドルフォの謎』には、サントベールやエミリー、そしてヴァランクールのような絵に描いたような正義の人物と、その一方でモントーニ夫妻やモントーニの悪い仲間達のような絵に描いたような悪人しか登場しないのである。
 キャサリンはそのような人間理解を反省するのだし、オースティン自身もまたラドクリフのような人間理解によっては、本当に人間を描くことは出来ないということを主張しているのである。しかもオースティンはキャサリンに「イギリス人の心性には善と悪が入り混じっているが、フランス人やイタリア人はそうではない」というような途方もないことを思わせることで、キャサリンの未熟さを示しているのだとも言えるだろう。
 しかしオースティンは、ラドクリフがなぜその『ユドルフォの謎』だけではなく、他の小説でも、自分が生まれ育ったイングランドを舞台とせず、フランスやイタリアを舞台とせざるを得なかったのかの本当の理由を知らない。
 その理由について私はAnn Radcliffeの項で、次ぎに書くことになるが、それはすでに、クリス・ボルディック選『ゴシック短編小説集』の項でも触れていることである。
 ところで『ノーサンガー・アビー』は、謎の提出とその解明という方法において、『ユドルフォの謎』を踏襲する部分を持っている。『ユドルフォの謎』の場合のように超自然的な見かけに支配されることはないが、推理小説的な仕掛けを使っていることを見過ごすことは出来ない。
 それは、なぜティルニー将軍が自分の屋敷にキャサリンを鄭重に迎えておきながら、ある日突然、見送りもつけずにキャサリンを追い出すようなひどい仕打ちを行ったかという部分に関わっている。
 それは結局、ティルニー将軍がキャサリン家を大富豪だと勘違いをして、ヘンリーの嫁に迎えるために彼女を自分の屋敷に迎えたものの、キャサリン家が富豪であるどころか大変な貧困状態にあると聞かされて、掌を返すようにキャサリンを見限ったためであった。
 しかし将軍が財産だけを基準に息子の嫁を決めるような人物であるとしたら、彼は『ユドルフォの謎』におけるモントーニ夫妻のような型にはまった人物としてしか描かれていないことになる。
 ジェイン・オースティンはティルニー将軍の人物造形において、自分自身の人間理解を裏切っているとしか言いようがない。推理小説的なプロットを優先させようとすると、人物造形が平板で現実味を欠いてしまうという傾向はラドクリフの作品に始まっているし、現在でもそれは続いている。
 オースティンもまた、それを免れていない。そしてこの小説をキャサリンとヘンリーの幸せな結婚に終わらせるという、歯の浮いたようなハッピーエンドへの指向を見せていることもまた、『ユドルフォの謎』の轍を踏む結果となっていることも指摘しなければならない。
(この項おわり)

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