玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

Ann Radcliffe The Mysteries of Udolpho(14)

2016年04月18日 | ゴシック論

 前回で、エミリーとブランシュとの出会いについて説明することを意識的に避けた。そこにはあまりにものすごいご都合主義が介在していて、それだけでも取り上げるに値すると考えたからである。
 ヴィルフォール一家が散歩に出掛けるといきなり嵐がやってくる。一家は修道院に避難するが、ブランシュ嬢は窓から海を見て、そこに大波に弄ばれる船の影を発見する。やがて夕暮れがやってきて、その船は難破時のシグナルなのだろうか、銃の音をとどろかせる。
 ブランシュ嬢は生きた心地もせず舟を見守るのみだが、ヴィルフォール伯爵は海岸にたいまつを焚いて船に岸にたどり着く手がかりを与える。その策は成功して難破船から乗客が救出される。
 その救出された乗客というのが、なんとエミリーとデュポン、アネットとルドヴィコだったのである。彼らはユドルフォ城脱出後、船に乗ったことになっていたから、その船が嵐に巻き込まれてここに辿り着いたというわけなのだろう。彼らはいきなり難破船の乗客として再登場するのである。
 すべてが偶然に委ねられている。エミリー達が辿り着き救い出された場所が、エミリーとサントベール父娘がかつて迷い込んだルブラン城であることも、しかもその城がサントベールがその死の報を聴いて顔色を変えたヴィルロア伯爵の所有であり、この城には何か秘密があって、ここでその謎があきらかになるだろうということも、すべて偶然に委ねられている。
 後ほどヴィルロア伯爵夫人がサントベールの妹であり、エミリーのもう一人の叔母であったことも明かされることになるが、これほど『ユドルフォの謎』にとって重要な場所に、エミリー一行は難破によって偶然辿り着くのである。こんなことは現実にはあり得ないことで、万に一つの可能性もない。
 このようなご都合主義はゴシック小説に特有のもので、ラドクリフだけに特徴的なものではないが、しかしいくら何でもその程度がすごすぎる。もう少し無理のない展開もあり得たはずで、エミリーがルブラン城について秘密の手がかりを掴んでいたという設定にしておけば、エミリーがユドルフォ城脱出の後、この地を目指したことにも出来たはずである。
 こうしたご都合主義はゴシック小説に大衆小説的ないいかげんさのイメージを与えるものであって、その意味でもラドクリフの作品が大衆的な人気を博したが、文学的な評価が低いことの理由が分かろうというものである。
 しかし、私はゴシック・ロマンスの最高傑作と言われるマチューリンの『放浪者メルモス』にも、このようなご都合主義が山ほどあったことを言っておかなければならない。副主人公達が窮地に陥ると必ず、天変地異か何かがあって彼らは窮地を脱するのである。
 しかもエミリーの難破-救出とそっくりな場面が『放浪者メルモス』の第二の主人公アロンゾの場合にもあったと記憶している。マチューリンでさえラドクリフのこの作品を読んでいたのである。
『放浪者メルモス』はそのご都合主義にも拘わらず、主人公メルモスの苦悩とアロンゾをはじめとする副主人公達の人物造形における成功によって、ゴシック・ロマンスの最高傑作という評価は疑い得ないものとなっている。
 しかし『ユドルフォの謎』には、こうしたご都合主義をカバーする何ものもないと言ってもよい。すべては謎と謎解きのためにあり、謎解きを先延ばししていく中で、ご都合主義が幅を利かせる。
 アン・ラドクリフはこの本の解説者であるR・オースティン・フリーマンが言うように本質的に「推理小説の祖母」であったのだ(母が誰かは知らないが……)。