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ツヴェタン・トドロフ『幻想文学論序説』(3)

2016年12月03日 | 日本幻想文学

ツヴェタン・トドロフ『幻想文学論序説』(3)

 前回引用した部分は『幻想文学論序説』の結論部分の一部であって、トドロフの文学に対する考え方をはっきりと示しているところではないだろうか。
 トドロフによれば、文学そのものが「現実と非現実との言語的対立」に基づきながら、言語が言語それ自身を否定することによって、それを乗り越えていく行為である。だから「幻想文学こそは文学の精華なのである」と言いうるのである。
 20世紀の言語学によれば、言語は言語そのものを指し示すにすぎないのではあるが、言語を越えて出ることもある。この"越えて出る"ことをトドロフは幻想文学における本質と捉えているのである。
 そのことはトドロフの言う超自然と関わっていて、幻想文学にあっては物語と超自然の間に大きな関係があるということになる。トドロフは次のように書いている。

「物語というものの定義からして明らかなように、超自然が登場するテクストはすべて物語なのだ。というのも、超自然的出来事が、あらかじめあった均衡を変化させるものだからである」

 そいて、「超自然は物語の変化を最も急速に実現する」とも言っている。だとすれば、物語にとって、「超自然の社会的機能と文学的機能は要するに一つのものでしかないことは明らかで、いずれも同じく掟の侵犯なのだ」というわけである。
 我々はだから、幻想文学において超自然の中に言語が言語を超え出ていく部分を見なければならない。また「超自然の社会的機能と文学的機能が一つのもの」であるとすれば、幻想文学ならぬ一般文学においては「事件というものの社会的機能と文学的機能は一つのもの」ということになるであろう。
 その二つのものの共通の根拠は、言語そのものの中にあるのであって、"超自然"の中や"事件"の中にあるのではない。我々はトドロフの『幻想文学論序説』から、そうしたことも読み取らなければならない。
 ところでトドロフは幻想が怪奇と驚異の境界上にある一過性のものと見ていたのと同じように、幻想文学というものが19世紀に隆盛を見たものの20世紀には致命的打撃を被ったと見ている。19世紀はかろうじて超自然への信頼を装っていたが、20世紀はそれを許さなかったからである。
 トドロフはカフカの超自然的物語に新たな可能性を見て本書の結語としている。しかし、幻想文学が今日滅びたかと言えば、決してそんなことはない。超自然的物語は色褪せてしまったかも知れないが、まだ言語が言語自身を越え出ていく実験精神に可能性は残されているし、カフカの文学はそのようなものとして理解されるだろう。
 トドロフは本書の中で、幻想文学の範疇から詩と寓意を除外している。詩は文学の中でもとりわけ虚構によって成立するものではないことから、「幻想的ではあり得ない」のである。どんなに怪奇で驚異に満ちたことを書いても、詩にはそれに対する驚愕の反応がない。詩は最初から現実から離れた場所で出発しているのであるから。
 そして寓意についても、そこに示された二つの意味のうち、超自然的なものは除外されてしまうのであるから、これもまた「幻想的ではあり得ない」ことになる。ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』を読めば、あまりの恐怖に背中に戦慄が走るが、幻想詩を読んでも我々は怖さを感じることはないし、寓話的物語では超自然的部分は意味を剥奪されてしまうから、動物が喋ろうが、椅子が踊り出そうが、怖がってみようがないのである。

 まだトドロフの『幻想文学論序説』には重要なことがたくさん書いてあるが、そろそろ「日本幻想文学集成」へと進んでいかなければならない。集成を読み進めながら、トドロフを参照していければいいかなと思っている。
(この項おわり)