玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ジェフリー・アングルス『わたしの日付変更線』(1)

2017年01月04日 | 玄文社

「北方文学」74号の巻頭を飾る作品「あやふやな雲梯」を寄せてくださった、ジェフリー・アングルスさんがこのほど思潮社から詩集『わたしの日付変更線』を刊行されたので紹介したい。
 この詩集には「四十四歳で初めて会った母に」という献辞が添えられている。ジェフリーさんは両親が分からないまま養子として育てられたという経歴の持ち主であり、昨年の春にお会いしたときに「初めて母に会ったんです」と言っておられたことを思い出す。
 父も母もどこにいるか分からないというジェフリーさんの位置は、ある意味で存在論的な意味を持つ。「惑星X」という作品に次のような部分がある。

 何千年も 何万年も
 太陽系の外側の 孤独なコースを
 手探りで進んできた そうしながら
 自分の引力で 天空に声をかけ続けてきた
 遠い光の反対側の 見えない
 妹の惑星たちに

〝惑星X〟というのは太陽系の一番外側に未発見の巨大な惑星があるはずだとされるもので、ジェフリーさんはこの孤独な惑星に自分自身のイメージを託しているわけである。〝妹の惑星〟というのは、母親との再会によって知るところとなった異父妹を指している。
 このような存在論的な自己の位置づけは、ジェフリーさんの多くの作品に影を落としていると言えるが、そこに止まっていたのでは私小説的な話題の周辺を巡るのみである。その背後には英語と日本語という二つの言語の間で、いつでも自分を位置づけていかなければならないジェフリーさんの言語論的なアポリアがある。
 あるいはむしろ、『わたしの日付変更線』はそれだけで成立していると言ってもよい。たとえば巻頭の「日付変更線」。日付変更線をまたいで存在する二つの自分。次のような詩句は、ジェフリーさんの存在の自由を語ると同時にその苦悩をも語っているのだ。

 飛行機が目的地に
 近づけば近づくほど
 きのうのわたしは
 漣(さざなみ)の下に沈んでいく
 というのも わたしは
 どこにも属していない
 過去にも 未来にも
 ひょっとしたら 現在にも

 このような〝どこにも属していない〟という自己意識は、文学を通して言語に近づく者の誰しもが強いられるものであるが、さらに二つの言語に対して文学を通して接近する者にとって、この〝帰属の不可能〟はより強固な強制を伴っている。
 いわゆる〝越境の文学〟という規定に、ジェフリーさんの文学的営為も含まれるのであるが、彼ほどに二つの言語に対して自覚的であり、そのことが彼の作品を読む者に対しても〝帰属の不可能性〟を強制していく存在はない。
 ジェフリーさんは越境者ではない我々日本人に対してすら〝越境者〟であることの幸福と不幸とを、二つながらに強制するのである。

ジェフリー・アングルス『わたしの日付変更線』(2016、思潮社)