玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

カルロス・フエンテス『老いぼれグリンゴ』(3)

2017年01月23日 | ラテン・アメリカ文学

 アンブローズ・ビアスがフエンテスにとって、たいして好きな作家ではなかったのではないかということは、フエンテスが『老いぼれグリンゴ』の中で、ビアスという男を存在感を持って描くことが出来ていないことからも、十分に窺うことが出来る。
 ビアスは国境を越えてメキシコに入り、革命軍のパンチョ・ビージャに合流しようとしているアローヨ将軍のグループと行動をともにする。アローヨの部下達は、自慢の射撃の腕で手柄を挙げたビアスを尊敬し、「グリンゴ爺さんはメキシコに死ににきたんだ」と言っている。
 しかし、読者にとってビアスが「メキシコに死ににきた」という部分が全然伝わってこないのだ。ビアスにとって南北戦争がどういうものであり、それによってどう生き方に変化があったのかということを描かない限り、「メキシコに死ににいく」ビアスのリアリティを確立することは不可能である。
 また〝国境を越える〟ことの意味、つまりは〝境界を越える〟ことについて、フエンテスは作中でビアス自身に「わたしたちには夜にしか越えようとしない境界がある」「それは、他人との相違となっている境界、自分自身との戦いのための境界」と語らせているが、それが自分自身を乗り越えるために国境を越えることを意味しているのだとしても、そんな戦いはほとんど描かれていない。
 フエンテスはビアスの内部に〝国境を越えること〟を内面化しようとしているのだが、完全に失敗している。ビアスの行動にそれだけの衝迫力が充填されていないからである。
 あくまでもビアス=グリンゴ爺さんの存在感は稀薄であって、そのことはこの作品にとって致命的な欠陥だと言わなければならない。そうでなければフエンテスが、この作品にもう一人のグリンゴ(女性だからもう一人のグリンガ)である、ハリエット・ウィンズローを登場させる必要などありはしないのだ。
 ワシントンからやって来たハリエットは、メキシコの地主であるミランダ家の家庭教師として雇われ、国境を越えてきたのだったが、ミランダ家に着いたときには革命軍に追われて一家は誰もいなくなっている。ここでまったく目的を失ってしまうハリエットは、新たな自分を闘い取らなければならない。
 ハリエットはグリンゴ爺さんとアローヨ将軍との愛憎関係の中で、本当の自分を構築していくのだが、この作品の中で自己変革を達成する唯一の存在がハリエット・ウィンズローであり、『老いぼれグリンゴ』の主人公はアンブローズ・ビアスではなく、ハリエット・ウィンズローであるのだと思わざるを得ない。
 ハリエットはアメリカ人として、アメリカの若い女性として、国境を越え、メキシコの地で自己変革を遂げていく。それこそがアメリカ人であることのアイデンティティを、メキシコ人の側から描くというアメリカ批判として、本当に描きたかったことなのであろう。だから『老いぼれグリンゴ』の中で存在感を発揮しているのが唯一ハリエットだとすれば、この作品は失敗作であると断定しないわけにはいかない。
 ビアス=グリンゴ爺さんを巡って語られることはいつでも図式的で観念的である。グリンゴ爺さんが語るとき、あるいはグリンゴ爺さんについて語られるとき、その言説はいろんな角度から行われていて、それが時に多声的(ポリフォニック)であるなどという作品評価に繋がっていくのだが、私はそこにフエンテスの迷いしか見ることが出来ない。
 最後は「グリンゴ爺さんはメキシコに死ににきたんだ」という言葉に帰っていくだけである。好きでもない作家をネタにして長編小説を書くなどということを、カルロス・フエンテスは行うべきではなかったのだと思う。
(この項おわり)