アンブローズ・ビアスはその短編小説と『悪魔の辞典』で、一時は日本でも人気の高い作家であった。特に芥川龍之介が高く評価し、その「藪の中」という代表作にビアスの「月明かりの道」のイメージを借りたことも知られている。しかし、今日ではビアスの作品はあまり読まれないし、一時もてはやされた『悪魔の辞典』についても言及する人はほとんどいない。
ビアスは南北戦争で義勇兵に応募して戦争を戦い、重傷を負っているが、戦争というものを身をもって体験した作家と言えるだろう。そのことは彼の代表作「アウル・クリーク橋での出来事」という作品に、強く出ている傾向である。
カート・ヴォネガットはこの「アウル・クリーク橋での出来事」を「アメリカの最高の短編小説」とまで評価しているが、確かに南北戦争で北軍に捕まり絞首刑となるある地主の思念を臨場感たっぷりに描いているところは評価してもよい。
一方でビアスは怪奇小説も書いていて、私の知る限りではクリス・ボルディック選の『ゴシック短編小説集』に「蔓草の家」という作品が、創元推理文庫の『怪奇小説傑作集3』に「怪物」という作品が収められていて、今日でも読むことが出来る。
どちらもひねりにひねった怪異譚で、ビアスの本領はその辺にあるようだ。ジャーナリストとしてのビアスは極めてシニカルな精神の持ち主であったようで、冷笑的な精神は時に本気の創作に水を差す。「蔓草の家」は人間の体の形をした根を持つ蔓性植物の怪異を描いているし、「怪物」は透明な怪物の残虐な驚異を描いている。
「アウル・クリーク橋の出来事」を読むと、なぜこんなにひねりを加えて、最後に強烈なオチを持ってくる必要があるのか疑問を持ってしまう。戦争を生で体験し、戦争というものを臨場感を持って描くことが出来るのに、これではひねりの利いた小賢しい作家という評価しか得られないではないか。
だからこそ多分ビアスは、今日顧みられることの少ない作家になってしまったのだろう。ところでフエンテスはこんなビアスという作家をどう料理していくのだろうか。
訳者の安藤哲行は解説で、ビアスの「アウル・クリーク橋での出来事」の「バラバラになってさまよう意識のありよう」が「ビアスをめぐる描写にうまく使われている」と書いているが、本当だろうか。
「アウル・クリーク橋での出来事」で絞首刑にされる、ペイトン・ファーカーの意識は「バラバラになってさまよ」ってなどいない。あくまでもファーカーの死にゆく意識は、リアリズムの内側で捉えられている。そしてこの作品だけでなく、ビアスの作品を特徴づけているのは、新しい方法意識などではなく、やはり小賢しい語りにこそあるだろう。
フエンテスが作家としてのビアスを好きだったとはとても考えられない。だからフエンテスはビアスを作家として評価していたがゆえに『老いぼれグリンゴ』の主人公に据えたのではなく、国境を越えてメキシコ革命に参加したアメリカ人であったからこそ、『老いぼれグリンゴ』という小説を書いたのであったろう。
フエンテスにとってメキシコ人であることのアイデンティティーを問うことは終生のテーマであったが、もう一つフエンテスがテーマとした重要なことがある。それこそアメリカ合衆国批判に他ならない。
『ガラスの国境』(1995)では、アメリカとメキシコの国境にアメリカ資本によって作られた、マキラドーラという工業地帯によるメキシコ人収奪の構造を批判しているではないか。それもまたフエンテス終生のテーマであった。
もしフエンテスが今日生きていて、アメリカのトランプ次期大統領のメキシコに対する差別的言辞を聞いたら、烈火のごとく怒り、徹底した批判を繰り返すだろう。
ドナルド・トランプ自身も含めたアメリカの資本家は、メキシコの安い労働力によってどれほど儲けてきたかということを、決して言わない。人種差別的な言説もまた、収奪の構造の内部にこそあるからである。