第三のプロットラインを紹介する前に、ジェフリーさんは「縫い合わせるストーリーライン」としての、老いたる語り部に言及している。この語り部の役割を重要視して次のように言う。
The elderly storyteller is the key person who sets the action of the story in motion.
語り部はこの小説に動きを与える重要な人物なのである。主人公の藤原南家郎女は、大津皇子のことをまったく知らない。それであれば、第一のプロットラインである藤原南家郎女と、第二のプロットラインの大津皇子の物語が交差することはない。
それを郎女に伝えるのが老いたる語り部であり、第一のプロットラインと第二のプロットラインをつなぐ役割を果たすのである。そして語り部は折口自身と同じ役割を担っていることを指摘して、ジェフリーさんは次のように言っている。
In a way, the role of the old storytellers is a great deal like the role of Orikuchi himself, who with his specialized knowledge of ancient Japanese history was in a unique position to identify those ancient historical figures who had been wronged by history and sacrificed to the imperial institution.
つまりは、歴史によって不当な扱いを受け、天皇制の犠牲となった古代の歴史的人物たちの身元確認をするユニークな位置に、折口も語り部もいるのである。と言うよりも、折口が脇役としての語り部に自分が目指す役割を担わせていると言った方がいいだろう。
折口の語り部との自己同一化はそれだけに止まらない。奈良の時代にあっても社会は大きく変化し、語り部は自分自身に呟くのみで、それに信を置く何人も存在しない。そのことを折口は『死者の書』第20章の冒頭に綴っている。
語り部の嘆きは折口の嘆きでもある。「科学と学問が急速に発展する世界の中で、若い世代の学生たちにうんざりし、大学で教えることよりも、広範囲な場所に旅をしてフィールドワークを行い、古代の知られざるテキストを読んでメモを取ることを好む」折口は、語り部と同じように古風(old-fashioned)なのである。
ところで、折口の時代には地方に旅すれば、未だに古代世界につながる言説を担う語り部というものが存在し、そのことが民俗学のフィールドワークを可能にしていたわけだ。しかし今日、そのようなものが存在しうるとも思えない。
『死者の書』の語り部は聴き手を失ってしまっているのだが、現代においては語り部そのものが失われてしまっている。それを担うことが出来るのは、今日では間接的にではあれ、文学以外にはあり得ないのかも知れない。
第三のプロットラインは、このold-fashionということを共有するもう一人の人物、大伴家持のそれである。ジェフリーさんは大伴家持のことを"The Artist Out of Step with Modernity"と呼んでいるが、それもまた折口自身の代名詞ではないか。
家持は『万葉集』の編者の一人であり、自らの作品も載せている。彼は日本の古謡から中国の古典まで幅広いジャンルに通暁した文学者であると同時に、政治家でもあり、氏族の長でもあった。しかし、越中に左遷されたことが彼のメランコリックで孤独な性格を形成した。彼は氏族の長としての役割にも自信を喪失していた。
そんな家持の古風なあり方を折口は『死者の書』で、屋敷にめぐらす古風な石城(しき、stone walls=ジェフリー訳)を好み、当世はやりの築土垣(つきひじがき、earthen walls with tiles or thatch on the top to protect them=ジェフリー訳)を嫌悪する趣味に象徴させている。
He is attracted to stone walls as symbols of a strong, powerful past to which he feels he belongs, and he laments the fact that stone walls are rapidly disappearing, creating a world in which noting looks quite as secure as it did in the past.
あくまでもこれは譬えであって、家持は強固で力強い古きものを愛し、時代の変化の中でそのようなものが失われ、利便性を優先する新しきものを嫌悪したのである。
三つのプロットラインと、もう一つ語り部のストーリーラインも、古風ということにつながっていく。『死者の書』はそうした意味で反時代的な作品であったし、それがジェフリーさんの言うように、折口がこの小説を書いた軍国主義の時代への批判であったとすれば、同時にアクチュアルな作品でもあったことになる。
ただし、ここで言っておかなければならないことは、今日支配的になっているものを嫌悪し、古きものを愛するという思考形式はそれ自体近代的なものであって、古きものを相対化して見ることが出来る近代的思考によるものだということである。だからこそ『死者の書』は反時代的であると同時にモダンであるという背理を実践するのである。
さて、もう一度ゴシック小説(gothic tale, gothic romance)という話題に戻ることにしよう。この作品をゴシック小説と見なすかどうかというテーマである。
『ゴシック短編小説集』を編集したクリス・ボルディックによれば、「ゴシックは同時に反ゴシックである」という。それは中世への憧れを基調としたゴシック小説が、同時に中世の抑圧的社会への告発でもあったということを意味している。
ゴシック小説は古きものへの偏愛を通して、反時代的な思潮を反映しているだけではない。ゴシック小説の主人公たちは、古きものによって抑圧され、そこから生じてくる幽霊や悪魔に脅かされ、それらによって処罰されるのである。ゴシック小説の主要な作品はいずれもそうした構図を持っているし、何よりも主人公たちが余儀なくされる罪障感において共通している。
しかし、折口の『死者の書』には古代への憧れ、古きものへの偏愛や郷愁はあっても、それがもたらしてくる罪障感は皆無と言っていい。だから私は『死者の書』をゴシック小説と名付けることをためらわざるを得ない。それは優れた幻想文学、あるいは幽霊譚ではあっても、ゴシック小説とは言えないと思うのである。