ところで、何をもってオクタビオ・パスは『遠い家族』を〝完璧な小説〟と評価するのであろうか。内容に踏み込む前に、この小説における謎の提出と謎の解明というプロットについて考えてみたい。多分パスはそこのところを高く評価していると思われるからだ。
主人公ブランリー伯爵はメキシコで、考古学者ウーゴ・エレディアとその息子ビクトルと知り合いになる。エレディア父子は行く先々で、自分たちの同姓同名者を電話帳で探し出し、そこに電話をかけるという奇妙なゲームに夢中になっている。
最初それは不謹慎な遊びとしか思われず、どうしてこの父子がそんなゲームにうつつをぬかしているのか、読者には理解出来ない。しかし、このゲームこそが、エレディア父子ともう一人のビクトル・エレディア、そしてブランリー伯爵とを結びつけることになる。
この謎は小説後半のウーゴ・エレディアの告白によって解明される。ウーゴがカラカスで開かれた考古学会に出席し、家族でパーティに参加したときに出会った不思議な人物に関係している。その男こそがウーゴの息子と同じ名前を持つビクトル・エレディアという人物であり、彼はウーゴ一家に強い印象を残す。
もう一人のビクトル・エレディアは「いつかこの私が必要になったら電話帳で探してください」と言い、「我々はみんな時々思い出す必要があるんですよ」という謎めいた言葉を残す。
エレディア父子の電話のゲームは、この男にもう一度会うために行われるゲームだったのである。この悪魔的な男は、母親がハイチからやって来たという経歴の持ち主であり、彼は新大陸の過去を代表する人物であり、エレディア一族の過去のこと、そしてブランリー一家のことを詳しく知っている。
なんの関係もないと思われた人物同士が、もう一人のビクトル・エレディアによって密接に絡み合ってくる。このあたりのプロット処理がうまくできている。しかもそうした関係性は、次のような言葉によって過去の歴史の中に普遍化されていく。ウーゴ・エレディアがブランリーに言う言葉である。
「古代メキシコのもとも深遠な教訓を要約して欲しいとお望みなら申し上げますが、それはブランリーさん、こうです、すべては関連しており、孤立している物は何もない、あらゆる物はその空間的、時間的、物理的、夢幻的、可視的、不可視的属性の全体を伴っているのです。」
ウーゴ・エレディアがなぜ考古学者という設定になっているのか、この言葉で理解することが出来るのである。見事という他はない。
この小説はひと言で言えば、過去が現在に対して復讐する物語であると言いうるだろう。そこでは現在の中にいつでも過去が侵入してくる。フエンテスが嫌ったリニアーな時間は、この小説には存在しない。ブランリーの次のような言葉は、カルロス・フエンテスの言葉なのである。
「現代の都市によって神々が追放されてからというもの、我々は時間について誤った認識を持つことを余儀なくされている。なぜならそれは人間の能力の限界に規定された時間だからだ、我々は時間とは直線的な連続だという偏見を持ち、他の時間は存在しないと思い込んでいる。」
『遠い家族』の分かりづらさは、作者がリニアーな時間というものを否定し、過去が現在の中に再帰的に侵入してくる時間を主要な時間としているからだ。そしてその時間の中で、すべてのものが関連づけられていく。
『アウラ』で体験した夢魔のような時間が、この作品でも再現されているのである。