玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ロベルト・ボラーニョ『はるかな星』(2)

2017年04月23日 | ラテン・アメリカ文学

 小説は一見何の変哲もない学園風景から始まる。チリはコンセプシオンの大学が舞台である。フアン・ステインとディエゴ・ソトという教授のゼミに集う、幾人かの詩を書く男女の学生たちの人物配置がまず行われる。
誰が誰に恋しているとか、誰も相手にしてくれないとか、〝まるで青春学園ものだな〟と思っていると、すぐに暗転がやってくる。その暗転は次の一行に見事に示され、その後に悪夢がやってくる。

 数日後、軍事クーデターが起こり、政権が崩壊した。

 1973年9月11日のピノチェト将軍による、アジェンデ左翼政権に対するクーデターである。その後歴史的には独裁的な恐怖政治が続いていくのであるが、『はるかな星』ではそうした歴史的事実がそのまま書かれることはない。
 そうではなく、次々と消えていく友人たちや、教授連の情報の中にそのことが暗示されるのみである。そして、語り手〝僕〟がそのひとりに恋している双子のガルメンンディア姉妹の恐怖。その恐怖は思いもしない形で現実のものとなる。
 主人公カルロス・ビーダーは最初、ルイス=タグレという名前で登場する。その後も様々な偽名で何度も出てくるが、まるでその悪行が固有名には所属せず、不特定多数の名前に帰属するそれであるかのようである。
 ビーダーは不穏なコンセプシオンからナシミエントの叔母の家に避難しているガルメンディア姉妹を突然訪問し、そして突如凶行に及ぶ。その場面は次のように書かれている。

 いずれにしてもビーダーは、ドアを次々と静かに開けていく。ついに一階のキッチンの隣に叔母の部屋を見つける。向かいはおそらく家政婦の部屋だ。部屋の中に滑り込んだちょうどそのとき、家に近づいてくる車の音が聞こえる。ビーダーはにやりと笑い、ことを急ぐ。素早く枕元に立つ。右手に鉤を持っている。エマ・オヤルスン(姉妹の伯母)はすやすやと眠っている。ビーダーは枕を外し、それで女の顔を覆う。即座に、一息で、頸を掻き切る。

 ここでは淡々とした描写の即物性が指摘される。感情をまったく押し殺したかのような文章である。『2666』の「犯罪の部」で連続女性強姦殺人事件を犯罪調書のような書きぶりで書いて見せた、あの冷酷さに似ている。しかし『はるかな星』の殺人場面には『2666』のような露悪的な要素はない。
 ビーダーは車でやって来た四人の男と、ガルメンディア姉妹をも殺害するのであるが、その凶行の場面は描かれない。ボラーニョはそれを意図的に描かない。描かないことによって、読者にさぞかし残忍な殺され方をしたのだろうという推測を働かせるのである。
 いわゆる〝黙説法〟である。ボラーニョはこの黙説法の名手であると思う。小説は起きたことをすべて書いたのではいけない。そこにメリハリが生まれないからである。露出すべきは露出し、秘匿すべきは秘匿しなければいけない。
 その典型的な例を第6章のカルロス・ビーダーがアパートの自室で開く写真展の場面に見ることが出来る。この殺人鬼ビーダーは、自分が殺した人間の死体の写真を部屋に無数に飾り、客をひとりずつ入れて展覧に供するのである(このことも後から分かるのであって、最初はどんな写真展なのか読者は知らない)。
 ボラーニョはこの異常な写真展のことを直接描写しようとしない。招じ入れられた客の反応を通して、その異常さを強調する。最初に部屋に入ったタチアナ・フォン・ベックの反応はどうであったか?

 タチアナ・フォン・ベックが出てくるまでに一分もかからなかった。顔は青ざめ、引きつっていた。みなが視線を向けた。彼女はビーダーのほうに目をやり、――まるで何か言おうとしているのに言葉が見つからないかのように見えた――それからトイレまでたどりつこうとした。だが間に合わなかった。廊下で吐いてしまい、そのあと、ひとりで帰りたいと言い張ったにもかかわらず、家まで送っていこうと申し出た将校に支えられて、よろめきながらアパートを出ていった。

 こういうところに私は、ボラーニョの特異な才能を感じないではいられない。